(11)浅野内匠頭(たくみのかみ)と瓜生(うりゅう)大池
 正保2(1645)年3月15日、赤穂藩主の池田輝興(てるおき)が妻を殺害して領地を没収されました。
 6月22日、浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)の笠間(かさま)から赤穂に赴任してきました。この長直が赤穂浅野家の祖となります。
 池田時代、那波(なば)浦・陸(くが)村・池之内村・佐方(さがた)村・相生浦が赤穂藩の所領でした。
 浅野時代になって、那波浦・陸村・池之内村・佐方村・相生浦に加え、若狭野(わかさの)村・矢野村が赤穂藩にとなりました(179か村。5万3500石)。
 8月29日、藩主の浅野長直は、大野九郎兵衛(くろべえ)・近藤三郎左衛門(さぶろざえもん)・奥野将監(しょうげん)に命じて、佐方(さがた)村の庄屋・百姓中に対して、年貢の納入を命じています。
 寛文11(1671)年3月5日、浅野長直は、家督を実子長友(ながとも)にゆずり、養子の長恒(ながつね)には若狭野村の雨内・若狭野・田井・奥野山・八洞・出・宮野尾・高野須・東後明・西後明・入野・上松・寺田の一部3000石を与えました。
 浅野長恒は、その領地を支配するために、若狭野陣屋を設けました。

 元禄14(1701)年3月14日、浅野長友の子である浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)は、江戸城松の廊下で、高家筆頭の吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしなか)に対して刃傷に及び、その日に切腹を命じられました。赤穂浅野家の所領は、幕府領として召し上げられました。これを刃傷松の廊下といいます。
 元禄15(1702)年9月1日、下野国の烏山城主である水井直敬が新しい赤穂藩主となりました。
 相生・那波・陸・池之内・佐方の5カ村は、永井家の所領となりました。
 三濃山・能下・榊・釜出・瓜生・森・門野・中野・金坂・小河・菅谷・上・二木・真広・寺田の一部・下土井・上土井・下田・下頃は、幕府領となりました。
 那波野と野瀬の一部は、龍野藩の脇坂領となりました。
 野瀬の一部は、丸亀藩の京極領となりました。

相生市矢野町瓜生
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瓜生の大池
 元禄15(1702)年12月14日、大石内蔵助ら47人は、吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。これを赤穂事件といいます。
 大石内蔵助は、元禄7(1694)年2月、藩主浅野内匠頭長矩の名代として、備中松山城の城請取を立派に果たし、その手柄によって、藩主から相生村200石を加増されました。その縁で、内蔵助は度々相生にやって来ています。大石良雄の庭園とか、大石町という地名が相生に残っています。
 刃傷松の廊下により、浅野長恒は、一時出仕を止められていましたが、間もなく許されました。長恒の所領である雨内・若狭野・田井・奥野山・八洞・出・宮野尾・高野須・東後明・西後明・入野・上松・寺田の一部3000石も、旗本浅野領となりました。
 宝永3(1706)年1月28日、永井直敬が信濃国・飯山藩に移ると、備中国・西江原藩主の森長直が新しい赤穂藩主となりました。相生・那波・陸・池之内・佐方の5カ村は、森家の所領となりました。
 享保8(1723)年の絵図面によると、相生の所領は次の様になっています。
 相生・那波・陸・池之内・佐方の5カ村は、以降、明治維新まで森家の所領となりました。
 雨内・若狭野・田井・奥野山・八洞・出・宮野尾・高野須・東後明・西後明・入野・上松・寺田の一部3000石は、旗本浅野領として明治維新まで存続しました。
 幕府領であった三濃山・能下・榊・釜出・瓜生・森・門野・中野・金坂・小河・菅谷・上・二木・真広・寺田の一部・下土井・上土井・下田・下頃の内、三濃山・能下・菅谷・下頃は安志藩の小笠原家の所領となりました。残りの榊・釜出・瓜生・森・門野・中野・金坂・小河・上・二木・真広・寺田の一部・下土井・上土井・下田は小田原藩の大久保家の所領となりました。
 那波野と野瀬の一部は、龍野藩の脇坂家の所領です。
 野瀬の一部は、丸亀藩の京極家の所領です。

 相生市矢野町の瓜生大池には、次のような話が残っています。
 瓜生村、上村、菅谷村の百姓は、毎年、水不足で、困っていました。
 そこへ、常陸の笠間から浅野の殿様が赤穂にやって来ました。
 この地にやって来た浅野の殿様が百姓の悩みを聞いて、大きな池を掘り、掘り出した土で新たに田畑を開墾することにしました。
 大きな池を普請していた時、江戸城で浅野の殿様が刃傷事件を起こしたということを知らせる飛脚がやってきました。そこで、工事を指揮していた赤穂の藩士が慌てて城に戻っていきました。
 その後、赤穂藩はとりつぶしとなりました。
 しかし、完成した大池は、3月の彼岸過ぎから雨水を溜めると、田植えまでには池の水がいっぱいになりました。今も、大池の水は、瓜生村、上村、菅谷村の田畑には欠かせず、百姓に喜ばれています。
 昭和30(1955)年に建立された瓜生大池の記念碑には、「浅野長矩公(ながのりこう)の築造にして尓来
(いらい)瓜生、上、菅谷住民の受くる恩沢(おんたく)は忱(まこと)に甚大(じんだい)なり」とあります。
 参考資料1:小林楓村氏の『相生史話』の延享4(1747)年「播磨国赤穂郡瓜生村差出明細帳」(64頁)には、次の様に記されています。要約すると、溜池を3ヵ所を作りました。その内、瓜生の大池の土手の長さは96間(約174メートル)、根置(土手の下部)の幅は21間(約38メートル)、馬踏(土手の上部)の幅は4間(約7メートル)です。この池の水は、7町5反の田の用水に使います。元禄12(1699)年に新しく開かれた田畑を検地したのが浅野内匠頭さまでした。
史料
「一、溜池三ヶ所
 内
 字大池 一ヶ所、長九十六間 根置二十一間
馬踏四間
 但 田方七町五反歩程の用水に懸申候
(略)
   覚え
一、新田畑は元禄十二年卯新開浅野内匠頭様御検地」
 参考資料2:常陸国は今の茨城県です。下野国は今の栃木県です。信濃国は今の長野県です。備中国は今の岡山県です。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻・『郷土のあゆみ』