(21)白狐と大島城
 源頼朝(みなもとのよりとも)は、富士山の裾野(すその)で巻狩(まきがり)をした時、海老名(えびな)弾正(だんじょう)も連れていきました。

 ある夜、海老名弾正は夢の中に白狐が出てきて、枕の辺に来て、「明日の巻狩で私を私を射ないでほしい。もし、私を射ることがあれば、私はお前に祟(たた)るあろう」と言いました。弾正は頷(うなず)いて、「分かった」と返事しました。

 次の日、やはり白狐が現れました。形も毛並みも夢で見たのと同じでした。これを見た源頼朝の家来たちは、誰も射ようとする者はいませんでした。

 源頼朝は、海老名弾正に命じて、白狐を射るよう命じました。弾正は、昨夜の白狐との約束もあり、ためらっていました。それを見た頼朝は、怒って、家来に「白狐より先に弾正を射殺せ」と命じました。弾正は、ここにいたって、一矢で白狐を射殺しました。

 源頼朝は、笑みを浮かべて、「よくやった。備前(いまの岡山)の児島(こじま)を褒美としようか、それとも那波(今の兵庫県相生市)の大島を与えようか。お前の選んだ方を取らせよう」と言いました。海老名弾正は、「大島は児島よりは大きいであろう」と考えて、大島を希望しました。

 今、海老名弾正は、那波の大島に住んでいるということです(『赤穂郡誌』)。

 この伝説には、別な話も残っています。

 建武3(1336)年の春、赤松則村は、おおくの家臣を引き連れて、昔からの習慣通りに、佐方の野で狩座(かりくら。鳥やけものをとる場所)を設けました。この時、高取峠にある落岩より天白という夫婦の老白狐が飛び出して来ました。家臣は夫の狐を射殺しました。

 それ以来、妻の白狐は、那波の塩谷地蔵坂や女郎ノ鼻に現われたり、室津の遊女に化けて、しばしば通行人を佐方の入口にある川尻へ引入れるなどの崇(たた)りをしていました。

 村の人は、これを「天白の女郎狐」と言ってとても怖れていました(『正統那波史』)
相生市旭字箆島
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大嶋城址

『赤穂郡志』(原文)
 俗説曰ク源頗朝富士野ニ狩ス海老名弾正従へリ或夜夢ニ白狐アリ其枕邊ニ来リテ曰ク詰且ノ狩請フ吾ヲ射ルコト勿レ若シ果シテ吾レヲ射ハ我汝力崇ヲナサント弾正之ヲ頷ス明日果シテ白狐出タリ形状毛澤夢ニミル所ノ如シ衆之ヲ親テ能ク射ルモノナシ頼朝弾正ニ命シテ之ヲ射サシム弾正躊躇ス頼朝怒テ衆ニ令シテ曰ク狐ヨリ先ツ弾正ヲ射ヨ弾正是ニ於テ一箭以テ白狐ヲ射ル頼朝笑テ曰ク可ナリ備前ノ児島ヲ賞センカ那波ノ大島ヲ輿へンカ汝ノ擇フ所ニ任セント弾正大島ノ児島ヨリ大ナルモノナラント察シ大島ヲ乞ヒテ之ニ居レリト

 『播磨鑑』では、白狐のことを七色の狐としています。大筋では、『赤穂郡誌』と同じです。
 『播磨鑑』には、大島之城(矢野庄那波浦)を次のように書いています。
 城主は文永年(1264〜1274年)中、海老名弾正が居住していました。
 言い伝えによると、源頼朝の時代、海老名氏の某は七色の狐を射殺しました。瀬朝はこれを褒めて、大島を与えました。今、海老名氏の子孫が相続していると言われています。
 今、相生浦に海老名氏がいます。その子孫と言われています。
『播磨鑑』(原文)
『播磨鑑』
 【大島之城】 矢野庄那波浦
 城主ハ文永年中海老名弾正居住ス
 里俗ノ説曰頼朝公ノ時海老名氏某七色ノ狐ヲ射殺ス 瀬朝公是ヲ賞シテ此島ヲ賜ヒテ子孫相傳フト云 相生浦ニテ今海老名氏アリ其子孫ト云

『正統那波史』(原文)
 建武三年春、赤松則村は数多の家臣を引具し、古来の習慣例事に則り、佐方の野に狩座を催す。時に、高取峠の通称落岩より『天白』と称する番(つがい)の老白狐の飛出すありて、従者之を退いて其の一雄を射止む。爾来右の老雌白狐は、那波の塩谷地蔵坂、また、女郎ノ鼻に現われて室津の遊君と化け、しばしば通行の人に崇りをなしたり。例えば、道行く人を佐方の入口なる川尻へ引入れるなどのいたずらをしたるを以て、里人等はこれを『天白の女郎狐』と称して大いに怖れたり

 この古城山は、大島の城といいます。昔、城主・海老名源蔵(源三郎景知)の居城と言います。海老名氏は、七化の狐が那波村で死んだことにより、友の狐が災をなし、どこの国かから攻めてきて、大島城を落城したと言われています。この小さい島ですが、播磨の大島と言います。
『中国行程記』(原文)
 此古城山ハ大嶋ノ城ト云・・昔城主海老名源蔵(源三郎景知)居城ト云。海老名氏七化狐当村ニテ死タル由、友狐災ナシ何国ヨリカ責来り落城シタルト云。・・此小キ嶋ナレ共、播磨ノ大嶋ト云是ナリ

(1)『播磨鑑』では、時代を鎌倉時代とし、祟りの原因を七色の狐を射殺したこと、源頼朝から褒美として大島を与えられことが記録しています。
(2)『赤穂郡誌』では、時代を鎌倉時代とし、祟りの原因を約束を破って白狐を射殺したこと、源頼朝から褒美として大島を与えられことが記録しています。
(3)『正統那波史』では、時代を南北朝時代とし、祟りの原因を夫の狐を射殺したと記録していますが、大島のことは記述されていません。
(4)『行程記』では、時代を南北朝時代とし、祟りの原因を七化の狐が那波村で死んだことと記録しています。既に海老名氏は、大島城主になっています。
(5)「相生市の伝説と昔話」(伝説編9)では、「大島城址に近づくと、急に重箱が重くなったそうです。重箱を開けてみると、巻ずしなどには手をつけず、稲荷ずしだけがなくなっていたというです」という伝説を紹介しています。さらに、今から70年ほど前にも「夜遅くなると、大島山には狐が出て、悪さをするので、早く家に帰ってくるようにと、親から言われた」という話が残っています。

 鎌倉時代や南北朝時代の話から、相生の狐の話が誕生したのか、もともと狐の話が相生にあったから、歴史的な伝説が生まれたのか、それを解明することが今後の課題と言えます。


季 兼 季定・貞 有 季 季 能 (袈裟王丸)
源親季 @家季 A季重 ・・ B盛重 ・・ C頼保 ・・ D季茂 E瀬重 F景知
左馬允菅原 矢 野 馬 次 郎 盛 重 季 長 季 茂
季 景 景 直 泰 知
海老名家系図

 『海老名系図』では、「播磨国の海老名氏の三代目・B盛重の条の末尾の部分で、盛重が富士野の狩りで老狐を射止め、頼朝の御感に入り(大島を)褒美に下賜された」とあります。
 『海老名家系譜』では、「播磨国の海老名氏の初代・@家李は、73代の堀河天皇の時代、長治元(1104)年、兄の海老名氏季兼と家督を争い、訴訟を起こしました。そこで、源義家が採決し、弟の海老名家季を播磨国矢野荘(別名那披)に下向させました。そこで、海老名家季は大島に城営を構え、少しの郷と少しの水田を開発し、代々そこに住んでいます」とあります。
『海老名家系譜』(原文)
 播磨国初代家李、海老名太郎左衛門尉、人皇七十三代掘川院の御宇、長治元甲申歳、聯(いささか)家督の評論有るに依り、言上せしむる処、乃ち義家朝臣の裁判に任せ、播磨国矢野荘(別名那披)に下向せしめ大島に城営を構う。若干郷並びに水田若干町を開発せしめ、代々住し畢

 『赤穂郡誌』では、「征夷大将軍・源頼朝は、権威を誇示するため、建久4(1193)年5月27日、富士野ので巻狩りをした時、B海老名盛重が老狐を射殺しました。頼朝はこれを喜び、褒美を与えた」とあります。
『赤穂郡誌』(原文)
 征夷大将軍源頼朝公、威勢を試し賜わんが為、建久四癸丑(1193)年五月二十七日、富士野に於いて御狩なさしめ給ふ時、盛重老狐を射採る、頼朝公御感之余り、御褒美を下し賜り畢んぬ

 『海老名文書』では、「建武3(1336)年5月、新田義貞の大軍が赤松則村の白旗城を包囲した時、F海老名景知は、弟の詮季・同泰和ら一族郎党を率いて、白旗城に籠もっていた」とあります。

参考資料1:『赤穂郡誌』は、藤江忠廉が延享四(1747)年に著述した郷土誌です。
参考資料2:『播磨鑑』は、平野庸脩が宝暦12(1762)年に著述した郷土誌です。
参考資料3:『正統那波史』は、西崎介四郎が昭和22(1947)年に著述した郷土誌です。
参考資料4:『中国行程記』は、毛利藩の絵師有馬喜三太が十八世紀の半ば、足で確認し、目で確かめて書いた絵地図です。
参考資料5:『正統那波史』は、西崎介四郎が昭和22(1947)年に著述した郷土誌です。
参考資料6:『海老名文書』は、京都大学文学部古文書室・那波政良氏・海老名甚平氏が所蔵する中世文書です。
挿絵:丸山末美
出展:『相生市史』第四巻