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□相生市の文化・歴史

水守亀之助「小さな菜畑」文学碑
若狭野町下土井
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現地案内板
碑表面
 滴るやうな朝露に濡れたのが日光をうけて、美しい光沢を放ってゐる山東菜や、朝鮮白菜や、体菜などの厚みのある、柔かさうな葉が見事に折重って、勢ひよくのび育ってゐるさまを見てゐると、私は不思議にも一種荘厳な感にうたれざるを得なかった。必要でもない、こんなものを沢山作って…などと祖母を責めるやうな気持ちは消え失せて了って、つくづくとそれ等の野菜を眺めながら、私は祖母の晩年の無意味な生活の中から、ある意義深いものが発見されるやうな気がした。

碑裏面
 水守亀之助生誕の地
 水守亀之助は明治十九年この地に生まれ、大正中期から昭和初期を通じて、作家・雑誌編集者として活躍、昭和三十三年七十二歳をもってその生涯を閉じた。
 代表作には『小さな菜畑』『帰れる父』など、その郷里の風土や水守家の人々を題材とするものが多く、その渋い独特の作風は「いぶし銀」の昧と評された。
 大正八年に発表された『小さな菜畑』は祖母を題材に、農村に生まれ、農村に死んで行く女の性を、生き生きと描き出した傑作で、農村の風土とそこに生きる人々の血の上に、水守亀之助の文学が立っていることを象徴する作品である。

昭和六二年五月廿四日
 市教委・文学碑協会・若狭野町下土井自治会建

『相生と文学碑』
小さな莱畑
 水守亀之助の代表作として最も知られるものは、父・達也を題材とする『歸れる父』と、祖母しげを題材とする『小さな菜畑』とがあります。『小さな菜畑』は、『歸れる父』より2ケ月早く発表されました。

 『歸れる父』は俊才と云われながら政治運動の末、8年にも及ぶ長い家出・放浪生活を送った達也が、明治42(1909)年)年不意に帰郷した、その時のことが事実に基づいて描かれています。

 父・達也は『歸れる父』に書かれた帰郷の後、間もなく、二度目のそして最後の放浪の旅に出て、大正2(1913)年に病死しました。そのため水守分家は全く廃絶し、家屋敷も無くなってしまいました。たった1人残された祖母・しげは、家の裏手の改築された稲荷堂に住んでいた。

 「小さな莱畑」は、水守亀之助の祖母・しげがこの稲荷堂で床に就くところから始まっています。従兄は、祖母・しげの状況を廣田孝吉に知らせました。廣田孝吉は、軌道に乗り掛った文学生活、臨月の妻、家門再興、淋しく病む祖母への愛情など、複雑な感情を胸に秘めながら故郷に帰ります。

 孝吉は稲荷堂の前に祖母が作っている小さな莱畑≠見て、老人1人の口には余るような作物を、無意味にしかも人手を雇ってまで栽培している祖母の浪費に対して、嫌悪と怒りを感じます。しかし、やがて、その祖母が死の床に在りながら最愛の孫を気遣うと同じように、その小さな菜畑″の作物の手入れを案じているのを見て、そこに農村で死んで行く女の性を感じて心を打たれます。

 そこに畑が在るから耕すのであり、そこに育てた野菜の成育は執念を込めて見守ろうとする。これはこの郷土の農村の人々の心に共通する、農民の宿命的な生き方なのであり、それは経済性や合理主義とは無縁な、血の叫びのようなものなのである‥‥と悟った孝吉は、その¥ャさな菜畑″の繁りから「一種荘厳な感」に打たれるのである‥‥。

 この碑面の文は、その『小さな菜畑』の一節である。滴るような朝露にきらめく陽光は、その時の水守の感動の象徴であろう。一時はそれを嫌悪し、拒絶しょうとした郷土の風土や血を、ここで自分のものとして受継ぎ、その上に自分の新しい人生を、新しい文学を築いて行こうと、心に期するのである。そしてその願いの通り、この作品によって文壇に不動の文学的地歩を固める。まことに劇的な文学的出発であったという他はない。

 後年、雑誌『野火』を主宰し、野火≠ニいう言葉のもつ、地方的農村的な新鮮な野趣を振興しようとした。出発に際して『小さな菜畑』にあるように、農村的風土と血をはっきりと自認し、それが水守の文学の基調となった。水守亀之助の生家跡に接する稲荷堂の地に建つこの「小さな菜畑」碑は、その意味で水守文学の原点を物語るものなのである。

水守亀之助
 水守亀之助は、明治19(1886)年6月、若狭野村下土井で、代々の医家に生まれました。父・達也は、俊秀の誉れ高く、政治に志しましたが、病死し、水守分家は廃絶しました。
 亀之助は、教師・友人の影響もあり、文を好くしました。校長・岡乕十郎と助教員・光葉(のち高田)十郎は、亀之助の人間形成に大きな影響を与えました。西田竹僊と号した松太郎は、亀之助に絵を教え、深い感化を与えました。

 亀之助は、家運再興を目指して大阪の医学校に進みましたが、病をえて中退し、明治39(1906)年秋、20歳の時、文学を志し上京しました。この頃、文学界は自然主義の全盛期という関係で、亀之助は、田山花袋・徳田秋声に私淑しました。亀之助は、大正8(1919)年、新潮社に入社しmした。同年9月、『文章世界』に発表した處女創作『小さな菜畑』、同年11月に発表した『歸れる父』が認められ、文壇にデビューしました。その後、各文芸紙に続々と作品を発表し、新聞にも連載小説を書き、長編『我が墓標』・短編集『傷ける心』などを出版しました。

 亀之助は、大正13(1924)年、新潮社を退いて、雑誌『随筆』を発行しています。自然主義文学が退潮すると、亀之助は、創作活動から遠ざかっていきました。昭和12(1937)年、文学を中心に、美術など文化一般や政治の分野をも包合する文化雑誌『野火』を創刊し、全国に支部を結成しました。

 亀之助は、名編集者として、川端康成・佐藤春夫など数々の作家を育て上げ、近代日本文学界に不動の足跡を残しました。他方、竹越三叉・山崎林太郎・永野護らの政財界人、津久井龍雄ら右翼理論家、洋舞の石井漠などとも幅広い親交がありました。

 戦争で『野火』は廃刊となりました。亀之助は、昭和20(1945)年5月、東京大空襲によって、栄子夫人を失い、牛込の屋敷・家財・蔵書も焼失してしまいました。戦後、『正わが文壇紀行』・『続わが文壇紀行』(朝日新聞社)、雑誌『かもめ』(最後の編集)、『枯れ野』(最晩年の秀作)を次々と出版しています。
 亀之助は、昭和33(1958)年12月、亡くなりました。時に72歳でした。葬儀には入院中の川端康成が病をおして参列し、大輪の白菊の花束を捧げました。

岡乕十郎
 氏は明治元年(1868)若狭野村八洞の生れ 資性潤達情誼に厚く御影師範卒業‥‥二十六年弱冠二十六歳にして赤穂坂越小学校長に抜擢され就任同三十三年村鶴亀高等小学校長‥‥若狭野尋常高等小学校校長‥‥同三十七年赤穂郡視學となる 爾来‥‥教育界に盡瘁すること賓に三十有餘年 退職後郷土にありしが村民の墾望辞し難く 推されて若狭野村長に就任せるや 卓絶せる政治力と社会奉仕の情熱は着々村政を改革 その治績は枚挙に暇なく‥‥昔時苦境の農村自立策として‥‥産業振興に努む‥‥氏の一生こそ真に子弟教育と村政治に一身一家を顧る事なく献身的努力を捧ぐ 村民茲に相謀って碑を樹てその功績を不巧に傳えんとす。
 昭和二十八年四月二十九日 若狭野村建之(岡乕十郎翁頌功碑 混文 在八洞岡邸)

高田十郎
 小河光葉久吉の次男で、鶴亀の高田分家を継ぎました。数年、小学校勤務の後、早稲田に進み、奈良師範学校(現在の奈良教育大学)教諭となりました。春日神社燈籠・石燈籠の銘文を調査し、奈良の史跡・古文化を研究しました。
 十郎は、昭和27(1952)年、亡くなりました。時に72歳でした。

西田竹僊
 西田竹僊は、明治12(1879)年5月、下土井に生まれました。本名を松太郎といいます。小さい時から絵にすぐれ、上京して絵を学びました。
 間もなく円山応挙の流れを汲む京都の鈴木松年(初号百僊)の門に入り、竹僊の号を与えられました。昭和の初期、西田竹僊は、京都で画家グループを結成ししました。この時、水守亀之助は、正宗白鳥らの賛助会員を募り、会の興隆に尽力しました。
 戦時中に帰郷しましたが、近郷で掛軸・屏風絵・襖絵などの作品を多くに描くことで、その憂を散じました。
 竹僊は、昭和26(1951)年9月、亡くなりました。時に72歳でした。

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出典:『相生と文学碑』

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