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□相生市の文化・歴史

芭蕉塚と布蝉句碑
古池本町 長池畔
現地案内板
 「芭蕉翁塚
  古池や蛙とびこむ水の音」
 「於母路に錆し石婦みの月 布蝉」
天保年代
津田布蝉建

 芭蕉塚と津田布蝉
 津田布蝉。通称刀屋七左衛門、寛政六年生、その初め、西国辺の士分だったと伝える。縁あって土着産をなす。俳系は栗の本(初代は青羅)。三世梧庵編『鳩の声』(文政十三年刊)には、若狭野の一素・那波の月湖・月船・江月・可月・浦仙・相生の飯盛・古池の燈夢・池之内の素影と共に入集している。
 本碑に記年はないが、天保六年、その四十二の賀に際してのものである。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」は貞亨三年江戸での作、正風開眼といわれたが、布蝉は尊敬する祖翁のこれを、おのれの住む地名の古池にちなんで建てたのである。以後、本業の刀研ぎのほか、俳譜宗匠として立つ。
 「おぼろに錆し石婦みの月」の脇句は、同十四年、折から芭蕉百五十回忌に追碑されたと思われる。安政六年歿、享年六十六。明治の頃にはまだこの場で句会が催されていたという。
平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
津田布蝉と芭蕉翁塚
 相生市古池の長池の西側に小公園があり、そこに芭蕉塚があります。先の尖った自然石の表に「芭蕉翁塚」、裏には「古池や蛙飛び込む水の音」の句が刻まれています。
 津田家所蔵の書画軸の題詞には、「‥‥古池屋布蝉の主、不惑の齢をむかへ玉ふ。曽而、村落の池上に蕉翁の塚を築、蛙の一句を題し、朝な夕な正風の○○を楽しみ、老いのいたるを知らず、近隣の諸君子に一句を乞ふ‥‥」とあります。
 題詞に続いて、「近隣の諸君子に一句を乞」われた俳句・和歌・漢詩など10編の作品があります。その内、『揖保川町史』によって、次の3人が判明しました。
 揖川(三輪敬節)の父・良琢は、正条村に出て医業を開いたといいます。揖川(三輪敬節)は、家業のかたわら、塾を開いて子どもの教育にあたりました。揖川(54歳)は、天保8(1837)年、亡くなりました。
 竜洞(三輪敬斉)は、揖川の長男で、詩文和歌の道にすぐれていました。竜洞(33歳)は、天保14(1843)年13)年、亡くなりました。
 香坪(三輪孝哉)は、揖川の三男で、長男・竜洞のあとをうけて家業を継ぎました。香坪は、詩文や歌画にも長じていました。香坪(58歳)は、明治6(1873)年、亡くなりました。
 この3人が揃って、津田布蝉の不惑の齢(40歳)の賀に祝詞を寄せたのは、天保8(1837)年頃と推測されます。
 つまり、長池のほとりに住んだ「刀屋」布蝉(津田七左衛門)は、池亭に剣を磨きながら、花鳥風月を友とした風流の人で、また蕉翁の遺風を慕い精進した人ということになります。

 芭蕉塚の建立年代は、書画軸の題詞には、「曽而、村落の池上に蕉翁の塚を築、蛙の一句を題し」とあるので、天保8(1837)年以前と推測されます。

松尾芭蕉以後の蕉風と相生
 松尾芭蕉(1644〜1694)の死後、安永・天明期の与謝蕪村(1716〜1783)を盟主とする中興俳諧の時期に、播州では松岡青羅(1740〜1791)が現れました。
 松岡青羅は、姫路酒井藩士の家にうまれましたが、藩を追われて諸国を遍歴し、加古川に三眺庵を結びました。明石の人丸社に塚を建てて供養を営み、諸国の著名俳人と広く交わりました。二代は玉屑で、三代は梧庵です。
 松岡青羅の活躍により、蝦交(1755〜1787)・嵐外(1752〜1831)・梅山・松山などが続きました。蝦交は(丸浜)阿賀屋こと岡田源右衛門尚義、嵐外は(丸東)阿賀屋こと岡田太郎右衛門常堅です。那波の庄屋松屋こと三木平兵衛道忠の次男は、(丸東)岡田を中興しました。梅山は浅野陣屋の上土、松山は相生浦庄屋海老名半左衛門です。
 蝦交(33歳)は、天明7(1787)年、急死しました。遺稿追善集『阿満ケ家』で、松岡青羅は、蝦交に対する哀惜と痛嘆を示しています。
 松岡青羅は、寛政3(1791)年、亡くなりました。
 文政13(1830)年、松岡青羅の三代目・梧庵門下の美作・赤松秋風が編した『鳩の聲』には、那波の三木禰左衛門正寛・浦仙(1778〜1750)、古池の刀屋事津田七左衛門・布蝉(1794〜1859)、(丸浜)岡田源右衛門・月湖(1774〜1845)、(丸浜)岡田治太郎・可月、都筑一素(若狭野陣屋の役人)など10人の名があります。

津田布蝉句碑
 松尾芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」の脇に津田布蝉の「おぼろに錆し石婦みの月」があります。この脇句は、天保14(1843)年、芭蕉150回忌に追碑されたと思われます。

 揖保郡正条村の香坪(三輪孝哉)は、「騒人斉シク汲ム蕉翁ノ派 窮極ノ詞源、子ニ非ズシテ誰ゾヤ」と書いています。その頃の西播での松尾芭蕉や蕉風についての雰囲気が察せられます。

 土地の古老の話では、この芭蕉塚で、芭蕉翁像の画軸をかけて、明治のある時期まで「お祭り」をしていたという。
 「蝦交会」という俳諧のグループが相生では、かなり長期に活動していたということです。

相生先哲百選(小林楓村『播磨』)
 『相生先哲百選』の「津田布蝉」では、「古池、屋号を刀屋という、素封家であった。俗称七郎右ヱ門、芭蕉に私淑し、村名に因み、芭蕉の名句「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑を建て、又芭蕉別辞「古池や蛙飛び込む水の散り」を建て、又布蝉の句碑もある‥‥」とあります。

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出典:『相生と文学碑』・『相生の文学』

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