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□相生市の文化・歴史

相生市歌碑
相生市役所前庭
現地案内板
 相生市歌
      浦山 貢作詞
      宮原禎次作曲
 西播磨野に雲青く 良湾深く入るところ
 文化の潮寄せしより 自然と人の時を得て
 榮えかがやく 相生市
昭和五七年十月一日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
相生市歌
一、西播磨野に雲青く 良湾深く入るところ
 文化の潮寄せしより 自然と人の時を得て
 榮えかがやく 相生市 
二、苦難の嵐 乗り越えて 工業都市を 國生みし
 我等市民の 意気を見よ 団結固く いとなみの
 力みなぎる 相生市
三、鳥山におう 海の幸 打瀬の真帆に 影さして
 大船小船 出つ入りつ 日にけに伸びる 商港に
 気運わきたつ 相生市
四、翼を張りて 舞いあがる 都市眉若き この誇り
 御民ぞわれら かざしつつ 理想の都うち建てん
 希望明けゆく 相生市
五、磯馴の松も 溌溂と 時代の風に 唱和して
  祖国と仰ぐ 彌榮の 躍進一路日本の
 光りあふるる 相生市
 
浦山貢(作詞)・富田砕花(補作)・斎藤登(整曲)・谷藤吉(編曲)・宮原禎次(作曲)

市制施行祝賀式の県知事告示
 「本市ハ港湾 市ノ中央部ニ深ク湾入シ山岳之ヲ圍繞スル 天然ノ良港ニシテ 播磨造船所ヲ初メ大小ノ工業頗ル盛ントナリ‥‥昭和十四年隣接那波町ヲ合併シ之ヲ契機トシテ確乎タル信念ノ下ニ永遠ノ大策ヲ樹立シテ‥‥市制ヲ施行スルニ至リマシタコトハ 洵ニ時宜ニ通シ本市民ノ歓喜ハ勿論懸勢一段ノ躍進ヲ示スモノニシテ真ニ慶賀ニ堪へナイ所デアリマス‥‥
 昭和十七年十二月十二日
 兵庫願知事従四位勲三等 成田一郎」

唐端清太郎君記念碑銘 在甲崎雨香園
 唐端清太郎は、文久2(1862)年4月、兵庫県飾磨郡谷外村に生まれました。
 明治25(1911)年、赤穂郡相生村名誉村長に招聘されました。
 大正2(1913)年、村政を革(あらた)めて町政を布きました。相生の海湾を利用して、船渠を設け、小船舶の建造に便利なようにしました。
 大正7(1918)年、衆議員総選拳で当選しました。
 大正9(1920)年6月10日、亡くなりました。
 (原文は白分)「地ヲ相生湾頭ノ山紫水明ノ境ニトシ碑ヲ建ツ以テ君ノ事暦ノ梗概ヲ叙ブ銘ニ日ク
 機略ハ縦横ニシテ任侠ハ諾ヲ重ヌ 議檀ノ精英ハ郷土ノ髦(すぐる)士播陽ノ相生ハ 長汀曲浦 蜑戸(あまの家)耕氓(百姓)ハ 義ヲ慕ヒ徳ヲ頌フ
 昭和六年二月         兵庫縣水産會長小畑種吉書
              題字 内閣総理大臣 濱口雄幸書」

鈴木商店
 鈴木岩治郎は、明治3(1870)年、神戸に商社・鈴木商店を創設しました。日露戦争と第一次世界大戦中に主として貿易により飛躍的に発展し、大戦中の最盛期、1カ年の貿易額は10億円、系列合社には日商岩井・神戸製鋼所・帝人・豊年製油・播磨造船所・三井東圧化学・三菱レーヨン・昭和石油・日産化学工業・日本火薬・大日本製糖・日本製粉・ダイセル・サッポロビールなどがありました。
 鈴木商店は、大正9(1920)年、大戦後の反動恐慌により、事業の整理縮小を図りました。
 鈴木商店は、大正12(1923)年、関東大震災により決定的な打撃を受け、銀行負債は4億5000万円に達しました。
 鈴木商店は、昭和2(1927)年4月5日、金融恐慌が発生し、負債の内3億5000万円をかかえた台湾銀行から取引を停止されて、破産しました。

播磨造船所
 播磨船渠株式会社は、明治40(1907)年3月、設立されました。社長は中曽根貞松、専務取締役は唐端清太郎でした。事業は、船舶・汽機・汽経の製造・修理でした。
 播磨船渠株式会社は、明治42(1909)年、建設中の事故により船渠が崩壊し、出資者が事業意欲を失ったことが原因で、解散しました。
 高橋為吉は、明治44(1911)年、播磨船渠を譲り受け、播磨船渠合名会社を設立しました。
 播磨船渠合名会社は、明治45(1912)年1月、6000屯の船渠を完成しました。
 播磨船渠合名会社は、明治45(1912)年6月、辰馬・人馬・岡崎等海運業者が設立した播磨造船株式会社に譲渡されました。その後、不振な時期を耐えました。

 播磨造船株式会社は、大正3(1914)年、大戦景気を迎えました。
 鈴木商店は、大正5(1916)年4月、 造船直営を計画し、株式会社播磨造船所(第一次)に商号を変更しました。造機・製缶を神戸製鋼所に依存し、巨費を投じて大型船建造工場拡張を推進しました。

 アメリカは、大正6(1917)年4月、第一次世界大戦に参加し、鋼材禁輸令を出しました。この令は造船業界に大打撃を与えました。そこで、金子直吉は、浅野総一郎との船鉄交換交渉に成功し、鋼材途絶を免れ、黄金時代を迎えました。
 株式会社播磨造船所は、大正7(1918)年5月、鳥羽造船所・浪華造船所と共に帝国汽船株式会社と合併しました。
 帝国汽船株式会社は、大正7(1918)年7月、第一次世界大戦が結し、極端な船腹過剰と深刻な造船不況に見舞われました。
 帝国汽船株式会社は、大正10(1921)年2月、神戸製鋼所と合併し、神戸製鋼所造船部播磨造船工場となりました。

 鈴木商店は、昭和2(1927)年、金融恐慌により破産しました。
 神戸製鋼所造船部播磨造船工場は、昭和4(1929)年11月、神戸製鋼所から分離し、株式会社播磨造船所(第二次)となりました。
 株式会社播磨造船所は、昭和5(1930)年の「船舶改善助成」により、業績を回復していきました。
 播磨造船所は、昭和8(1933)年以降、進水量は第4位に躍進し、労働者は4000人を越えるようになります。地元周辺の就業者と下請け関連工場が増加し、企業城下町が誕生しました。

 日中戦争は、昭和12(1937)年、勃発し、船腹の需要が増大しました。
 播磨造船所は、昭和14(1939)年、造船事業法が制定されて、標準船の建造が強力に推進されると、1万総トン級の大型タンカーの建造を本格化しました。この頃の労働者は約7000人に達しました。
 播磨造船所は、昭和18(1943)年1月、他の3社と共に、海軍艦政本部より改E型貨物船を早期大量に建造するための簡易造船所の建設請け負い、松の浦工場の建設に着手しました。松の浦工場を約1年で完成し、その結果、建造実績は14万総トンとなり、請け負った4社中1位となりました。
 播磨造船所は、昭和19(1944)年11月、労働者数も2万1600人に達しました。これは、男子工員・女子工員・学徒・女子挺身隊・受刑者・華工・浮虜が動員された数です。

 播磨造船所は、昭和20(1945)年7月、米軍機の空襲を受けました。
 戦後、播磨造船所は、GHQの管理下におかれ、松の浦工場の賠償工場指定、「制限会社令」による指定、「過度経済力集中排除法」による指定で、種々の拘束を受けました。播磨造船所は、その間、「続行船」と漁船を僅かに建造していました。
 米ソ冷戦により、対日方針と共に賠償方針も大きく転換され、量的増大・大型化・タンカーへの移行と急速に復興していきました。播磨造船所は、建造量は全国2、3位のシェアーとなりました。
 播磨造船所は、朝鮮戦争(1950〜1953年)による設備合理化投資より、溶接構造を先駆的・本格的に採用すると共に、大型ディーゼル機関の製作を行いました。

 昭和28(1953)年、「造船コスト引下げに関する暫定措置」・「粗糖リンク制」により、輸出船ブームとなりました。播磨造船所や関連企業を含め、労働者は約5000人を数え、相生市は戦後も企業城下町としての性格を有しました。
 播磨造船所は、昭和33(1958)年以降、受注の減少・先行き不安から、陸上機械部門を拡充して、経営の多角化を迫られました。

 (株)播磨造船所は、昭和35(1960)年7月、石川島重工業(株)と合併して、石川島播磨重工業(IHI)となりました。
 IHI相生工場は、昭和37(1962)年、単一工場として建造量世界一を記録しました。この世界一の記録は、昭和39(1964)年まで保持しました。
 IHI相生工場は、昭和49(1974)年、オイルショックと前後して本格的造船不況を迎えました。
 IHI相生工場は、昭和61(1986)年、従業員の大量解雇に続き、新造船部門の休止に踏切りました。播磨造船所と共に歩んだ企業城下町・相生市は、歴史的転換点に立っています。

富田砕花
 明治23(1890)年11月、盛岡市で生まれました。本名は戒二郎といいます。
 郷里の先輩である石川啄木と親交しています。
 明治・大正・昭和の三代のロマン派詩人として、行進歌・大会歌・校歌を数多く作詞しています。
 昭和59(1984)年10月、亡くなりました。

宮原禎次
 明治32(1899)年3月、岡山市で生まれました。東京音楽学校を卒業し、ベルリン留学しました。
 昭和9(1934)年から、宝塚歌劇団の作曲指揮、NHK大阪の作曲に携わっています。
 昭和12(1937)年から終戦まで神戸女学院大学の教授でした。
 昭和29(1954)年から武庫川女子大学の教授でした。
 昭和52(1976)年1月、亡くなりました。

横尾龍
 明治16(一八八三)年7月、佐賀県小城郡芦苅村で生まれました。
 明治40(1907)年、東京帝国大学造船科を卒業して、長崎造船所に入りました。
 大正6(1917)年、鈴木商店船舶部の技師となりました。
 大正10(1921)年、神戸製鋼所と合併した時、播磨造船工場の造船工作課長となりました。
 昭和4(1929)年、播磨造船所の創立とともに、専務に昇進しました。
 昭和18(1943)年、取締役社長となりました。昭和24(1949)年、参議院議員となりました。
 昭和25(1950)年、第三次吉田内閣の通産大臣となりました。
 昭和25(1950)年8月、六岡周三に社長を譲りました。
 昭和32(1957)年1月、亡くなりました。

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出典:『相生と文学碑』・『相生市史』第三巻

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