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□相生市の文化・歴史

山部赤人万葉歌碑
金ヶ崎 あいおい荘前
現地案内板
 辛荷の島に過る時に山部宿祢赤人の作れる歌一首 并せて短歌
あぢさはふ 妹が目離れて しきたへの 枕もまかず 櫻皮巻き 作れる舟に ま梶貫き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南つま 辛荷の島の 島の間ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 漕ぎたむる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈も置かず 思ひそ我が来る 旅の日長み
   反歌三首
玉藻刈る辛荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はざらむ
島隠り我が漕ぎ来ればともしかも大和へ上るま熊野の舟
風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り
昭和五七年十二月五日
            相生ロータリークラブ創立廿五周年記念

 山部赤人辛荷島万葉歌碑
 山部赤人が四国辺へ下るときの詠か。旅中望郷の歌。歌中の淡路から播磨にかけての地名がこの「万葉の岬」から一望のもとにある。
 妻に別れて、その手枕もせず、桜皮を巻いて作った舟に、左右の櫂をとりつけ漕いできて、淡路の野島も過ぎ、印南つまや唐荷の島の、島の間から故郷の方をふりかえると、青山のどのあたりともわからず、白雲も幾重にも重なってきた。漕ぎめぐる島々、行きかくれる島の崎々、どこへ行ってもわが家を思い続けて来ることだ、旅の日数も長いので。
 美しい藻を刈る唐荷の島で、魚をとる鵜ででもあったら、家を思わないでいられることであろうか−。
 島かげづたいに漕いでくると、うらやましいことよ、大和へ上る熊野の船が見える。
 風が吹くので浪が立とうかと、凪を待って都太の細江(姫路市飾磨区)で浦にかくれていることだ。
平成二年十月廿一日
市教委・文学碑協会建

『相生と文学碑』
辛荷の島
 この歌の山部赤人は、柿本人麻呂と並んで万葉を代表する歌人です。山部赤人の「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」・「田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不盡の高嶺に 雪は降りける」は有名です。

 この辛荷の島(唐荷島)の長歌・短歌は、山部赤人が伊予の温泉(道後温泉)へ行く時のものであろうと言われています。
 相生湾口の東突端金ヶ崎を「万葉の岬」と言います。眼前に浮ぶ三つの小島を辛荷の島、今は唐荷島(地ノ唐荷島・中ノ唐荷島・沖ノ唐荷島)と言います。

歌の解釈
 長歌では郷愁・思慕の情を概観的に、反歌では鵜や熊野舟に托して具体的に歌っています。明石海峡を過ぎると、播磨灘は、当時の大和の人々にとっては茫々たる大海でした。その雲煙の彼方に消えて久しい家郷に恋いわたる切々たる心情を詠んでいます。
 「あじさはふ」は「目」にかかる枕詞、「しきたえの」は「枕」にかかる枕詞です。大船を製造する時、木材の接合部分に、桜の皮を巻いて造った物を使用します。それを「桜皮巻き」といいます。「梶」は舵ではなく櫓や櫂のことです。「野島」は淡路島北淡町野島、「印南つま」は加古川河口の高砂と言われています。
 「玉藻」の玉は美称、「玉藻刈る」は、「辛荷の島」にかかる枕詞とも、実景の描写とも言われています。室津の藻振鼻には、犬養孝筆の「玉藻刈る‥‥」の歌碑が建っています。
 「ま熊野の船」、熊野は外海に面して良材を産していたので、そこで造られた船のことです。「都太の細江」は、姫路市飾磨区細江で船場川河口です。細江の思案橋の辺に、尾上柴舟筆の「風吹けば‥‥」の歌碑が建っています。

山部赤人
 生没年・伝記は不詳です。下級官吏として朝廷に仕え、神亀−天平8年(724〜736)の間に、宮廷歌人として作品を残しています。
 この間、山部赤人は、紀伊に神亀元(724)年、吉野に神亀2(724)年と天平8(736)年、摂津に神亀2(724)年と天平6(734)年、播磨に神亀3(725)年、それぞれ天皇の行幸に従っています。
 また、下総・駿河・摂津・播磨などにも旅をしています。

圧巻の碑(司波幸作)
 那智黒を敷き詰め、左右の台石に碑をはめ込む屏風仕立て、この歌枕の島々の眺望を配慮するなど、こまかい気配りが感ぜられる。全国に点在する万葉歌碑の数はおびただしいが、碑の形式・場所・大きさ・長歌と短歌と併せ刻むなど、まさに圧巻の碑といえよう。

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出典:『相生と文学碑』

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