home next

感状山城の歴史的位置(1)

感状山城の特徴
 感状山城は、相生市中世の歴史の象徴である矢野荘の荘園域内北側に、ひときわそびえ立つ山上にあります。この感状山は、海抜301.05メートルで、石垣でかためられた典型的な戦国時代末期の山城形態をのこしています。

矢野荘の推移(1071〜1313年)
 延久3(1071)年、赤穂郡司(大掾)秦為辰は、自らが開発した久富保の所有権を裁判で確保しました。
 保延2(1136)年、久富保は、美福門院に寄進され、荘園として認められ、矢野荘となりました。
 矢野荘は、その後、例名と別名に二分されました。
 別名は、南禅寺(京都)に寄進されました。
 例名は、浦分(相生湾岸)と惣荘(矢野・若狭野附近)とで構成されていました。
 正安元(1299)年、惣荘は、秦為辰の子孫と称する公文の寺田氏と地頭として赴任してきた海老名氏との間で東西に下地中分されました。
 正和2(1313)年、西方の領家分は、東寺(京都)に寄進されました。この地域では公文の寺田氏が在地の武士として強い勢力を持っていたので、新領主の東寺との間で度々紛争を起こしました。寺田氏を代表する寺田法念(範家)らは、領主側から「悪党」と呼ばれました。

感状山城と誕生伝説
 正和2(1313)年、寺田法念は、南禅寺領の矢野荘別名に討ち入った時、「城郭」を構えました(『東寺百合文書』)。矢野荘城での城郭(寺田氏の本拠の寺田に所在する下土井城の可能性が高い)の初見です。
 建武2(1335)年、東寺から派遣された使僧は、武装した荘民を指揮して「大避殿山上」に要害を築きました(『東寺百合文書』)。大避神社の裏の比高30メートル弱の大避山と呼ばれる丘で、場所を特定できる城郭の初見です。
 大避山の要害に続いて矢野荘内に登場したと思われるのが感状山城です。
 感状山城の伝承には、以下のような話があります。
 建武3(1336)年、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻していったん九州に逃れました。
 その時、尊氏に応じた赤松円心(則村)は、白旗城に立て籠もりました。建武政権側の新田義貞は、円心の本拠である白旗城を攻める前に、感状山を攻めました。
 感状山城を守る円心の子・赤松則祐は、激しく抵抗したが、結局、敗れて、白旗城に入りました。
 その後、将軍となった足利尊氏は、「よく戦って新田勢の進軍をくい止めた」としてので、赤松氏に感状を与えました。そこで、感状山と呼ばれるようになりました。
 建武年間に赤松一族が築いたという伝承は、近くの光明山城、那波浦城にもあります。
 南北両軍の行動の激しかった地域なので、いくつかの山城が築かれたことは否めず、その中でも感状山城は立地的に南北朝期の創築の可能性が高い。
史料
 感状山城 赤穂郡矢野荘
 城主七条家範資六世政資長子弥太郎義村字道祖才松丸、後政村と改名し、これに居す。後置塩城主政則、子無き故、これをこれを養う。其の女を以て妻とし、政村と改名す。
 ○家譜曰く、義村、次郎、又五郎丸と号す。竹内助太夫義昌これを養い、子となす。其の女を以て妻とし、下原感状山に住居す。後政則又これを養い、子となし、継がしめ、置塩山城に居す。是に於いて政村と改名し、七条と号す。建武三年のころ、新田義貞白旗山城を攻むるの時、則祐此の山に罷り、戦功有り。是より感状山と号す(『播磨古城記』)。

下剋上時代の西播磨(1531〜1547年)
 大永元(1521)年、備前守護代(三石城主)の浦上則宗の孫・村宗は、主家の播磨守護・赤松義村を自害をさせ、西播磨にも勢力を拡大していきました。
 享禄4(1531)年、細川高国・浦上村宗は、大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いで、赤松政祐・細川晴元・三好元長に敗れ、村宗は敗死しました。
 居城を室津城に移した浦上村宗の長子・政宗と三石城から天神山城に移った浦上村宗の次子・宗景が対立し勢力が二分されました。

 応仁の乱(1467年)後、龍野赤松氏の赤松政秀は、東寺領矢野荘の年貢請負をしていた。矢野荘の東寺領への年貢納入記録は、大永7(1527)年が最後になっています。
 永正16(1547)年、海老名氏の末裔と思われる相生村太郎左衛門は、赤松政秀から矢野荘内の相生・那波・佐方地区の抱分の田地を安堵されています(『海老名家文書』)。
 この頃の矢野荘は。西の浦上氏、東の龍野赤松氏、南の浦上氏という複雑な政治地図の中に位置していました。
 天文16(1547)年までは、龍野赤松氏は、在地(那波・相生地区)を掌握していたようである。しかし、矢野・若狭野地区の掌握については保証出来ない。

参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』)
出典:『感状山城報告書』・『相生市史』第四巻

home next