home back next

北曲輪群
をクリック(写真にリンクしています)

石垣状況説明地図←クリック

石垣状況説明全体地図←クリック

(2)石垣の現状
G北曲輪群
 東から西に延びた尾根を3段に削って造った曲輪と、谷を数段に削平した曲輪から成り、合計10カ所以上の小曲輪があったはずである。石垣は多く築かれていない。1段目と2段目の曲輪は、それぞれ南西隅にあるだけである。3段目曲輪は等高線に沿って、高さ1.6〜2.0mで延40.5mが築かれていた。V曲輪の西に
幅1.6mの虎口が確認できる。ここから、I曲輪に至る城道があったと思われるが、詳細は不明である。地表観察からは、1段目、2段目曲輪へのルートは、T曲輪を囲む腰曲輪の辺りから下がっていたと思われる。詳細な調査を行えば、この下方の曲輪部分を含めた縄張りが明白になろう。
(3)破損状況
北曲輪群
 地表観察により図表24のように石垣の位置を想定したが、判断の難しい場所である。部分的に残った以外は、根石さえない。3段目曲輪の南端に大きな石が用いられている。角を意識して積んだものと考えられる。城道が明確でなく縄張りが特定できないので図表24に示した以外にあったのかもしれない。縄張り調査の成果が待たれる。
(4)縄張りの概要
(5)北曲輪群から西側腰曲輪群(図表17)
 T曲輪・北U曲輪・南U曲輪の西斜面に広がる曲輪群であるが、急傾斜地であるため横長の曲輪群が棚田状に広がる。今回の調査では地形図と対照させながら現地を歩測した。その結果、曲輪と予想される平坦地については、ほぼ感状山城跡地形図通りであることが確認できた。そこで今回は、曲輪内部の小規模な段差や曲輪間の移動通路・虎口などを確認し図化することに努めた。
 まず、山頂部の曲輪については、北U曲輪・南U曲輪の西側側面に帯曲輪があり、これが南曲輪群から登ってきた城道を主郭であるT曲輪へと導くルートとなっていた。このようにして、北U曲輪・南U曲輪といった曲輪内を通らずに城内を移動できるようにしている。南U曲輪の西面石積みは、現在ほとんど崩れているが、元来は北U曲輪の西面石積みと共に、この城道をサポートするものであったのであろう。
 北U曲輪の中央西側には、この帯曲線ルートへ開く石階段のあとがある。本来はここから北U曲輪へ入るのが正式なルートであったと考えられる。
 一方、西側腰曲輪群もそれぞれ城道で連結され、南曲輪群から北U曲輪・南U曲輪の側面帯曲輪を通る主要道とは別に、山頂曲輪へと続く何種類かのルートを設定していた。
 まず、北U曲輪中央の石階段を帯曲輪に出たところのやや北側に、帯曲輪から西側腰曲輪群へと下っていくスロープが確認できる。このスロープの脇には小さな腰曲輪が付き、このルートの監視所の役割を果たしている。さらに、このスロープを下った比較的大規模な曲輪からは、西側と南西側へ斜めに下っていくスロープが確認できる。西側へと下った城道はV曲輪から北曲輪群の西側を抜けて北側鞍部へと続くルートへと合流する。一方、南西側へと下っていくルートは、もう一段下の曲輪をへて、V曲輪から南曲輪群へと続くルートと合流する。

参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』)

出典:『感状山城報告書』

home back next