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国指定史跡・感状山城跡
(まとめ)

第1節 感状山城跡の特性
 感状山城跡の遺構については、第2章、第3章で概要が記されているが、史跡の特性として、ここでもう一度整理してみる必要がある。
 感状山城の特性としては、次の6つの点があげられる。

@壮大な戦国山城の典型である。
 感状山城は山頂部の本城地区、中段の居館地区、それらの南に延び屋根上の南出城の3ブロックからなる。本城地区の縄張りはT曲輪から南方向への連郭式縄張りで、山陵上に直線的に配置し南曲輪群へと続き、景観を強く意識した構成となっている。居館地区は、谷間の平場と山陵上を大きく削平整地し、生活を意識した広い空間を連郭式及び階郭式プランで形成され居住性を意識した曲輪の配置で、戦闘面への配慮が薄い地区である。南出城に通じる屋根の区切は独立した砦風な曲輪(物見岩)があり虎口を形成し、土塁をともなう削平地が続き、見張りを兼ねた南方防禦を形成する。

A本格的な石垣構築が認められる。
 感状山城は戦国山城の本格的な石垣構築が認められる城である。石垣はよく保存され、堆積土を取り除くならば本城地区で4mを越す部分もあり、居館地区でも石垣を使い、廃城直前には総石垣の城であった。石垣の積み方は「野面積み」で山石を30cm前後、大きいのは1m余の幅の大きさに加工し、一見粗雑に積み上げた構造となっている。近世城郭にみる隅石の井楼積み、算木積みなど隅を直角にする技法がみられない。隅石垣はいずれも鈍角でゆるいカーブを描くことで角石垣を処理している。これは隅石垣(直角に屈折)が出現する以前の姿をあらわしている。このような石垣構築の技術は、いわゆる穴太衆と呼ばれる石工集団とは異なり在地勢力による築城技術をもつ集団の可能性も考えられ、今後の研究の成果がまたれる。石材地は、岩盤を有する感状山城から切り出した山石が主要なものとみなされる。石材の調達が城跡内の可能性が強いことが石垣築城の最大要因と考えられる。

B礎石をともなう建造物が存在する。
 礎石をともなう建造物が各曲輪で確認されている。南U曲輪では、書院風建物跡が確認され、柱間は真芯間で6尺5寸を示し、室町末期の京洛文化が反映された構造となっている。屋根は発掘調査の結果、瓦の検出がないため、桧皮葺などの構造と思われる。
 居館地区では、約8m×6mの建物遺構が検出される。建物跡は方■(土へん+専)(平瓦)を壁面の芯とし、その内側に礎石群を並べる構造で倉庫跡と思われる。この例は堺市でも確認され、商家の倉庫として利用されていたようである。倉庫跡の北東には備前焼の大甕が9個埋設され、そのうち2個を残存脂肪分析法により調べた結果、イノシシの肉の塩蔵肉と判明し、この付近は厨房施設跡と考えられる。

C空堀が存在しない山城である。
 山城では空堀の存在があるのが普通だが、感状山城ではそれがまったく見当らない。また、空堀の利用と同時に堀切すらもない。堀切らしい地点としては、T曲輪と北V曲輪のつなぎの曲輪であるが、高低差が約1m程度のため堀切とはいいがたい。感状山城と良く似ている置塩山城、利神城には空堀、堀切りが存在している。

D犬走りが石垣中段に構築されている。
 各曲輪に犬走りが巡っている。その目的は外堀の役割にも共通する。本城地区の犬走りは、石垣が2m平均で、上部の塁上から長柄やり(2間半〜3間の長さ)で突けば、犬走りを通過し、よじ登った敵兵は確実にやられてしまう。以上のように犬走りは、戦国末期の本格的石垣の出現ごろに可能となるものである。

E保存状態のよい城である。
 廃城後約400年を経るなか、農地利用・植林利用・宅地等の利用等がなかったため雑木林として今日に及んでいる。南北1kmの城域が後世に手が人らぬまま(石碑建設・遊歩道・林道など一切なし)今日を迎えている古城跡の例は極めてめずらしい。このように完存している感状山城は、県下でもめずらしい保存状態で、全国的にも極めて貴重な山城遺構といえる。
 感状山城跡は、このように中世から戦国期の山城遺構がその後の改変が加わることなく良好に残されており、戦国時代の正しい歴史の理解に必要欠くことのできない貴重な遺構である。
 これらの感状山城跡のもつ特性を基本にした史跡の保存と整備を進めなければならない。
(7)まとめ
 今回の調査では、以上の点のほか、周辺尾根に未確認の曲輪などがないかを調べるという目的があった。この点については、新しい遺構を確認することは出来なかった。特に物見岩から南西方向に森の集落へ続く尾根は、途中に平坦な地形が多く、曲輪が存在した可能性が高いと考えられていた。しかし、途中何箇所か、
曲輪状の平坦地はあったものの、いずれも旧の山道などで城の遺構とはいえないものであった。城の範囲については、現状で確認されているものでよいとみられる。
 城の縄張りについては帯曲輪を多用し、曲輪と城道の機能分化した戦国時代の遺構であると再確認できた。感状山城は、山麓からの比高が200m以上あり、相生市内でも光明山城とともに別格の立地である(『那波浦城跡発掘調査報告書』)。相生市域のみを基盤とする土豪などの城とは考えられない。もっと広域を支配す
る大名勢力が築城の主体と推定される。さきの『感状山城跡 発掘調査報告書』で村田修三氏は、浦上氏か浮田氏を築城主体と考えておられる。興味深いのは、そのとき使われた「海老名文書」によりこの辺りが、浦上氏・浮田氏と龍野赤松氏との勢力の境目であったことを明らかにされていることである。感状山城は、大名勢力が激突する両国境界の最前線として築かれた境目城と評価できるであろう。
 そうであるとすれば、従来は土造りの城から石垣の城へといった変化の流れから、光明山城から感状山城へと考えられていたが(『中世城郭事典』)、むしろ、この二城は境目城として対峠して築かれた可能性も考えなくてはならないだろう。光明山城は畝状空堀群が築かれているのが特徴である。これが東側の龍野赤松氏方の境目城と評価できる。この事は、境目を南側に下った現在の相生市と揖保川町との境界近くの長谷山城に光明山城と同じく、多数の畝状空堀群が存在することからも(図表19)、補強出来よう。長谷山城も畝状空堀群と帯曲輪がセットになっており、光明山城と同等技術と評価できる。やはり、龍野赤松氏の境目城として機能したのであろう。
 感状山城は、戦国時代も後半に備前の浦上氏・浮田氏方の東側最前線の城として築かれたと考えられる。石垣の使用は浦上氏の天神山城などと同等技術と評価できる。一方、対抗する龍野赤松氏方では、最前線の境目の城には帯曲輪とセットになった畝状空堀群を使用したと考えられよう。

参考文献
『感状山城跡 発掘調査報告書』(相生市教育委員会、感状山城跡調査委員会 平成元年3月刊)
『那波浦城跡 発掘調査報告書』(相生市教育委員会、那波浦城跡調査委員会 1997年)
『中世城郭事典』三(新人物往来社)
『相生市史』第四巻(相生市 1987年)
『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(兵庫県教育委員会、1982年)
「中世城郭から近世城郭へ」千田嘉博(『月刊文化財』)
「戦国期の城郭」村田修三(『国立歴史民俗博物館研究報告』8、
 国立歴史民俗博物館、1985年)
参考資料1:『史跡赤松氏城跡感状山城跡保存管理計画策定報告書』(以下『感状山城報告書』)

出典:『感状山城報告書』

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