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□相生市の文化・歴史

県指定文化財
史跡
那波野古墳(なばのこふん)
直径30mの円墳(南西部に残る裾の一部分により判定)
横穴石室の入り口
全長10.6mの横穴式石室(羨道部奥行6.7m+玄室奥行3.9m)
那波野古墳略図(『郷土のあゆみ━相生━』より)
 この古墳は、全長10.6メートル、羨道部(入口)の奥行き6.70メートル、幅1.7メートルでこれにつづく玄室(遺体を納める部屋)は、奥行き3.9メートル、幅2.8メートル、高さ3.30メートルの両方へひろがった大きな部屋(両裾式石室)になっています。相生市では最大、兵庫県でも屈指の大きな横穴式石室です。内部には、一個の重さ数十トンという大きな石が使われています。墳丘は、相当くずれており直径30メートルぐらいの円墳であったと思われます。

 那波野古墳の年代はおよそ七世紀ころで、この墓に葬られた人は、おそらく那波野を中心とする山陽道の要地を、広く支配した大豪族であったと思われます。

相生市教育委員会
県指定 昭和55年3月25日

 国道二号線を西にはしり市域にはいると、道のすぐ北側に古墳をしめす大きな標柱がたっています。石室のりっぱさによって、1980(昭和55)年兵庫県の史跡に指定されました。

 東部平地の東辺、普光沢川の流れからいえば、そのもっとも奥に位置しています。背後にゆるやかな丘陵を負い、その南麓につくられていて、このたぐいの古墳として典型的な立地をもっています。

 墳丘は周辺からの破壊がいちじるしく、ほとんど原形をとどめいませんが、かろうじて南西部にのこるすその一部分によって、円墳であることがわかります。大きさは石室との関係から、直径30メートルはあったと思われます。一般の古墳が10メートル前後であるのとくらべると、ひときわ大きな墳丘であったといえます。

 南に口をひらく横穴式石室は、全長が10.6メートルあります。入口(羨門)の部分の石が抜き取られた形跡があるので、もとの長さは、さらにそれをいくらか上まわるでしょう。玄室は長さ3.9メートル、幅2.8メートルで、六畳敷きほどのひろさがあります。床から天井までの高さは3.3メートルあります。

 大きな石室であるから、石材も大きい。最大の天井石はおよそ長さ3メートル、幅2メートル、厚さ1メートルで、重量は15トンをこえると思われます。大石を用いていることで有名な、奈良県飛鳥の石舞台古墳の天井石の一つは77トンもあるから、それにはとうていおよばないが、一般の横穴式石室の石材とくらべるとはるかに大型です。

 このようなひときわ大きな横穴式石室を巨石墳とよんでいます。全長10メートルを目安としてみると、兵庫県下でも十数基にすぎません。播磨については加古川市池尻15号墳(14.30メートル)、池尻16号墳(13.80メートル)、姫路市御輿塚古墳(11.55メートル)、神崎郡市川町山王1号墳(10.08メートル)、揖保郡新宮町天神山古墳(11.00メートル)、赤穂郡上郡町西野山6号墳(10・50メートル)があり、およそ郡単位に1〜2基という程度です。巨石墳の被葬者は、群集墳の被葬者が小地域を対象としたのに対し、それらを統合した大きな勢力の持主であったことがわかります。

 巨石墳が多いのは、当時の国の中心であった大和地方です。大きさの上でも、石舞台古墳の19.08メートル、岩屋山古墳の17.76メートル、さらには見瀬丸山古墳のような、全長26メートルという超大型があります。

 これらの巨石墳がつくられた年代は、6世紀前半から7世紀後半におよぶ、かなり長い期間です。那波野古墳の時代を推定する場合、那波野古墳の玄室幅を玄室長でわると、指数は73となります。これは大和の巨石墳とくらべても高い数値で、ちかいものでは艸墓古墳の62、岩屋山古墳の60などがあります。また、玄室幅に対する羨道幅の比率は、那波野古墳が69で、これは岩屋山古墳などの69〜73の範囲にはいります。

 このように那波野古墳の石室の形式が、大和の岩屋山古墳に代表される一群に似ていることによって、その年代は7世紀半ばごろと推定できます。また、この古墳の被葬者は、この地方の有力豪族であると同時に、中央と親密な関係をもった人物であったと思われます。

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出典:『相生市史』第一巻

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