史料忠臣蔵(1A)-事件の背景

1.事件の背景(冷光君御伝記)
(内匠頭と上野介の遺恨)

吉良上野介(華蔵寺) 浅野内匠頭(大石神社)
原典『浅野赤穂分家済美録』
「冷光君御伝記」『忠臣蔵第三巻』所収(八木哲浩編、赤穂市発行)
内匠頭さんの伝記「冷光君御伝記」を検証(1)
(1)妻の実家より5年前の記録を借用して勉強
(2)その結果、上野介さんに相談せず、不仲
 「元禄14(1701)年2月15日、浅野土佐守長澄(備後三次藩主)君は、先年(元禄)9年(1696年)両(勅使・院使)を伝奏屋敷で御饗応した時の事です。お勤めになられた格式(礼儀作法・規定)のお内証帖(記録)までもお借りして、下調べをして、準備していました。それにより上野介殿には相談する所をしなくなり、段々その関係がよくないこととなりました。
史料(1)
 (前略)元禄十四年…二月十五日…土佐守長澄君先年九年両伝奏御饗応の時の事なるへし 御勤被成候御格式御内証帖迄御借用御下しらへ相調候付上野介殿江御伺被成候処、段々不宜御仕形共有之

内匠頭さんの伝記「冷光君御伝記」を検証(2)
(1)同僚は「上野介さんは、強欲なので、賄賂を何度もするように」と忠告
(2)家臣も、同じ事を、何度も何度も、忠告しました
(3)内匠頭さんは、「ご馳走役が終わってからなら、何ぼでもする」と
 その結果、上野介さんは、そのことを不快に思われることが多くなりました。もっとも、”上野介さんは強欲な方なので、前もって、饗応役を勤められた方から、以前よりご進物などを度々するよう”という話を喜六さんや政右衛門さんら御用人迄もが申し出ていました。
 御用人どもの度々そのことを申し上げたところ、内匠頭さんは”ご馳走役の御用が済んだ時には、どれほどのことでもするが、前もって、度々、御音物(賄賂)をすることは、如何しきと思われる”というので、規定通りの付け届け(贈物)や御音物(賄賂)は前もって贈ってはいるが、その品物な中味などは詳しく分りません。その他の御音物(賄賂)などはありませんでした」
史料(2)
 御不快被思召候事共多有之、尤御同方強欲成御方故前々御勤被成候御衆前廉より御進物等度々有之由喜六・政右衛門御用人迄申出
 御用人共も度々其段申上候処、御馳走御用相済候上ニ而ハいか程も可被進候得共前廉度々御音物有之儀ハ如何敷被思召候旨ニ而御格式之御付届御音物ハ前廉被遣候得共 御品柄等詳ならす 外御音物等ハ無之(後略)

*解説:浅野内匠頭は、天和3(1683)年に、17才の若さで、勅使ご饗応役を勤めています。
 元禄14(1701)年に、再度、ご饗応役を任命された時は35歳になっていました。
 この時は、妻阿久里の実家の備後三次藩主である浅野長澄から諸記録を借りています。長澄は、5年前の元禄9(1696)年に饗応役を勤めています。
 「冷光君御伝記」は、『赤穂義士史料中』では「浅野長矩伝」として収録されています。筆者は、阿久里(瑶泉院)付きの家臣で、名は落合与左衛門勝信と言われています。
 落合は、『江赤見聞録』と『誠尽忠臣記』などから正説と認めるものを正文として、異説を排して編集したといいます。
 それはともかく、浅野内匠頭側から見た刃傷の背景説です。