史料忠臣蔵(2C)-刃傷松の廊下

2C.刃傷松の廊下(多門伝八郎覚書)

「多門伝八郎覚書」『忠臣蔵第三巻』所収(八木哲浩編、赤穂市発行)
東京大学総合図書館所蔵 
 最近、読者から全文を口語訳して欲しいという要望が多数ありました。
 そこで、多くの人が利用して、忠臣蔵論争にも参加できやすいようにと、議論が対立している部分について、原文を提示し、全文を口語訳することにしました。そこはネット社会の威力・魅力です。大いに、議論に参加して、忠臣蔵の発展に寄与されんことを願っています。
 直接、原典に接することができるように、出典を明示しています。さらに極めたい方は、原文に直接触れてみて下さい。
(1)「松の廊下で喧嘩があり、刃傷事件がおこった」
(2)「吉良上野介がケガをされたそうだ」
 元禄14(1701)年3月14日、お目付当番は多門伝八郎…でした。
 午前11時頃、殿中で大騒動があり、お目付部屋に次々と情報が入って来ました。「ただ今、松の廊下で喧嘩があり、刃傷事件がおこったそうだ。相手は分からないが、高家の吉良上野介がケガをされたそうだと言ってきたので、早速、目付部屋にいた私たちが松の廊下に駆けつけましたところ、上野介は同役の品川豊前守伊氏に抱えられて、桜の間近くの板縁で、前後を弁えず高い声で「医者を頼む」と言う舌は震えているように聞こえました。
史料(1)
 元禄十四年三月十四日御目附当番は多門伝八郎…也(中略)
 四ツ半時頃 殿中大騒動いたし御目付部屋江追々為知来ル、只今松之御廊下ニ而喧嘩有之及刃傷候趣、相手は不相知候へ共高家吉良上野介殿手疵を被負候由申来候間、早束(速)同役衆不残松之御廊下江罷越候処、上野介ハ同役品川豊前守伊氏被抱桜之間方近き御板縁にて前後不弁高声ニ而御医師相(願)度と言舌ふるへ候而被申聞候、
(1)「浅野内匠頭が梶川与惣兵衛に組み留められる」
(2)「浅野は、”私は乱心していない”と申された」
 松の廊下の角より桜の間の方へ逃げて来られということなので、畳一面血がこぼれていました。また、その側には顔色が血走しった浅野内匠頭が無刀にて、梶川与惣兵衛頼照に組み留められ、神妙に面持ちにて、「私は乱心していない。組み留めるのはもっともではござるが、最早、止めてくだされ。このように殺し損ねた上は、ご処分をお願いいたします。なかなか(いかにも)この上は、無理な刃傷はしないので、手を放し、烏帽子を着せ、大紋の衣紋を直し、武家のご法通り、仰せ付けられたい」と申されたが、梶川は手をゆるめませんでした。
史料(2)
 上野介は、松之御廊下角より桜之間之方江逃被参候趣故御畳一面血こほれ居候、又かたハらにハ面色血は(ば)しり浅野内匠頭無刀ニ而梶川与三兵衛(頼照)ニ組留られ神妙体ニ而私義乱心ハ不仕候、御組留之義は御尤ニは御坐候へ共最早御差免可被下候、ケ様打損し候上は御仕置奉願候、中々此上無体之刃傷不仕候間手を御放し烏帽子を御着せ大紋之衣紋を御直し武家之御法通被 仰付度旨被申候得とも、与三兵衛不差免候故、
(1)「浅野は、”お上に対しましては、何の恨みもない”」
(2)「浅野は、”打ち損じたことは残念”」
 内匠頭はなおも「私は5万石の城主でござる。さりながら、お場所柄を憚らなかったことは重々申し訳なく思ってるが、式服を着ている者を無理に抱き留められては式服が乱れます。お上に対しましては、何の恨みもないので、お手向かいは致しません。打ち損じたことは残念にて、かようの結果になったからには、致し方はありません」とよくよくことを分けて申されましたが、梶川は畳に組み伏せ、ねじつけておりましたのを、私が受け取りました。
史料(3)
 内匠頭拙者義も五万石の城主ニ而御座候、乍去御場所柄不憚之段は重々恐入奉候へ共、官服を着候者無体之御組留ニ而は官服を乱し候、 上江対し奉何之御恨も無之候間御手向は不仕候、打損し候義残念ニ而ケ様ニ相成候上は致方無之と能々事を分ケ被申候へ共、与三兵衛畳江組伏セねぢ付ケ居候ニ付、(多門)伝八郎…ニ而受取(中略)
(1)「多門は、”上野介に刃傷に及んだ理由は何か”」
(2)「浅野は、”上野介には個人的な恨みがあった”」
(3)「浅野は、”以前からいだいている恨みがあったので”」
(4)「浅野は、”上野介を打ち損じたのはいかにも残念”」
 「その方は、どうして場所柄を弁えずに上野介へ刃傷に及んだのはどのような心得か」と最初に私が内匠頭に聞くと、内匠頭は、一言の弁解もせず、「お上に対しましては、少しも恨みはありません。上野介には個人的な恨みがありました。一己(自分ひとり)の宿意(以前からいだいている恨み)で以って、前後も忘れて殺すべし思い、刃傷に及びました。この上はどのような処分を仰せ付けられても、ご返答を申し上げられるような立場ではありません。しかしながら、上野介を打ち損じたのはいかにも残念である」と。
史料
 其方義御場所柄不弁上野介江及刃傷候義如何之心得候哉と最初伝八郎申渡候処、内匠頭一言之申披無之 上江奉対聊之御恨無之候へ私之遺恨有之、一己之宿意ヲ以前後忘却仕可打果と存候ニ付及刃傷候、此上如何之御咎被 仰付候とも御返答可申上筋無之候、乍去上野介を打損し候義いかにも残念ニ奉存候…
(1)「上野介は、”内匠頭の乱心である”」
(2)「上野介は、”老人なので、恨みについて全然覚えていない”」
 私(大久保)らが吉良上野介に申し渡すには、「その方は、何の恨みを請けて、内匠頭から場所柄を弁えずに、切りつけられたのか。きっと覚があろう。正直に言いなさい」と申し渡したところ、上野介の返答には「私は何の恨みも請ける覚はありません。全ては内匠頭の乱心と見えました。又私は老人なので、恨みについて全く覚えがなく、それ以外、申し上げようもありません」と返答しました。
史料
 同役両人上野介江申渡(中略)、其方義何之恨を請候而内匠頭御場所柄ヲも不憚及刃傷□□(候哉)定而覚可有之、有体可申立と申渡候処上野介返答ニは、拙者何之恨請候覚無之全内匠頭乱心と相見へ申候、且老体之事ゆへ何の恨申候哉万々覚無之由外可申上義無之(旨)返答(略)
 目付の多門さんらが大目付の仙石さんに報告する。
 大目付仙石さんが老中の小笠原さんに報告する。
 目付の多門さんらは老中小笠原さんの指示で、他の老中同席の場で尋問内容を直接に報告する。この段階で、幕府は刃傷事件を喧嘩と断定し、吉良さんの治療から手を引いたと想像される。
 老中はその報告を側用人の柳沢吉保さんに報告する。
 その間目付の多門さんらは控えの間で待機する。
上野介のと強弁
(1)「内匠頭の乱心以外ない」
(2)「老人なので何の恨みか全然覚えていない」
史料
 多門伝八郎・久留十左衛門・近藤平八郎・大久保権右衛門四人より大目付仙石丹波守(久尚)・安藤筑後守(重玄)両人江相談之上若年寄(衆)江右糺之趣及言上候処、老中小笠原佐渡守(長重)殿へ被申上、(小笠原)佐渡守(長重)殿・(土屋)相模守(政直)殿列席(座)おゐて内匠頭・上野介返答之趣巨細御目付四人より直ニ言上致候処、(側用人)松平美濃守(柳沢保明)殿へ猶又申達追々御差図可有之旨暫之内四人之者ハ部屋ニ(可)扣(居)候(略)
侍医栗崎道有には公傷から私傷と方針を変更した老中が
どうして、喧嘩両成敗とせず、片落ち裁定となったのか
この裏に何かがある?老中と柳沢さんとの対立か?
 幕府は次のような決定をする。
 「内匠頭は場所を考えず、個人的な恨みで上野介に切りつけケガをさせたことは不届である。そこで、田村建顕に預け、内匠頭には切腹を命ずる」
 「上野介は場所を考え、手向かいしなかったことは神妙である。そこで、自由に家に帰ってよろしい」
史料
 内匠頭・上野介江糺之御目付之外不残可罷出、若年寄加藤越中守(明英)殿・稲垣対馬守(重富)殿御逢有之、浅野内匠頭義先刻御場所柄も不弁自分宿意ヲ以吉良上野介江及刃傷候段不届ニ付田村左(右)京太夫(建顕)江御預其身は切腹被 仰付、上野介儀御場所ヲ弁不致手向神妙之至御医師吉田意安服薬被 仰付、外科は粟崎道有被 仰付随分大切ニ保養可致候、右ニ付高家同役差添勝手次第退出可致之旨被 仰渡候(略)
伝八郎さんら目付は
「今日に今日の処分は余りに御手軽である」
と若年寄に直訴しました
 伝八郎さんら4人の目付は返事を保留し、若年寄の加藤明英さん・稲垣重富さんに面会を申し込み次のような申し入れをしました。
 「内匠頭さんは5万石の城主であり、本家の浅野家は大大名である。だのに、今すぐ切腹とは余りにも手軽な処分である」「今日に今日の切腹ということについては、私たちは小身ではあるが目付を将軍より任命されている以上、将軍のミスを黙っているのは不忠であるので、あえて申し上げる次第である」
 また「上野介さんの取り調べ態度は神妙であったという。そして『何の恨みを受けることもなく全く内匠頭の乱心により刃傷に及んだ』ということで、逆にほめられたという。今日に今日の御称美は余りに手軽ななされようである」
 つまり「もう少し様子を見てからでも遅くはない」という当然の主張である。
史料
 多門伝八郎申上候は(略)かりそめにも五万石之城主、殊ニ本家(広島藩)は大身之大名ニ御座候、然ル処今日直ニ切腹とは余り手軽之御仕置ニ御坐候間今日之切腹之義は乍恐私共小身之御役ニ而も御目付被 仰付候上は、上之御手抜之義ハ不申上候而は不忠ニ付恐をかへりミす奉申上候、(略)上野介儀も慎被 仰付尚又再応糺之上弥神妙ニ相聞へ何之恨受候義も無之全く内匠頭乱心ニ而及刃傷候筋も有之候ハヽ御称美之御取扱も可有之処、今日ニ今日之御称美ハあまり御手軽ニ而御坐候
若年寄は伝八郎さんの申し分に理解を示しながらも、
「柳沢殿がすでに決着をしたことである」と申し渡す
史料
 若年寄稲垣対馬守殿・加藤越中守殿被仰渡候ニは、只今御自分方被申立候処尤之至ニ存候へ共、最早松平美濃守殿江被聞届御決着有之候上は右之通被仰渡候と可心得被申渡候(可相心得被仰渡)
「将軍の決定なら仕方がないが、
柳沢殿の一存なら」と伝八郎さんは再度直訴
 伝八郎さんのみはそれでも抗議をする。
 「柳沢殿一存の決着ならば、もう一度お上にお伝え下さい。余りに片落ちの処分なので、外様大名にも恥ずかしい。もはやお上に申し上げての結論ならば是非もないが…」
 その考えと気迫に押された若年寄の稲垣さんと加藤さんは柳沢さんにもう一度その旨を伝えました。
史料
 伝八郎強而壱人申立候旨は美濃守殿御一存之御決着ニ御坐候ハヽ猶又被仰上可被下候、余り片落之御仕置、外様之大名共存候処もはつかしく存候、今一応被仰上可被下候、夫共最早言上ニ相成上之 思召ニも有之候ハヽ是非も無之仕合、(松平)美濃守(柳沢吉保)殿御一存之御聞届ニ御坐候ハヽ私達而申上候段被仰立可被下候と申候故、対馬守殿・越中守殿猶又(再応)美濃守殿江伝八郎ケ様申立候と被申立候処
柳沢さんは「執政たる自分が承認したことである」
    と怒って、伝八郎さんを謹慎処分に
 柳沢さんは怒って、「お上には言上していないが、側用人たる自分が決定したことに二度も抗議をすることは許されない。伝八郎を謹慎にせよ」と命令しました。
史料
 (松平)美濃守(柳沢吉保)殿立腹被致、上江言上は無之候共執政之者聞届之義ヲ再応申立候義難心得候伝八郎差扣之格ニ部屋に可扣旨井上大和守殿被仰渡候
将軍を重んじ二度まで直訴したことは感心だ
処分を解くから、副使として頑張れ
 老中の秋元喬知さんは目付の多門伝八郎さんに次のような申渡をしました。
 「そなたは、内匠頭が上野介に刃傷に及んだことについてそれぞれ処分が発表された時、自分の考えを申し上げたことは尤もで、お上を重んじ申し立てたことは神妙ではあるが、側用人の柳沢殿に2度まで自分の考えを述べたのは心得違いである。
 とはいえ、御役目を大切に自分の考えを述べたことによる謹慎なので、これを解除する。早々に御役目に励めなさい」
 そこで目付衆は相談して、伝八郎さんと大久保権左衛門さんを田村邸検視の副使に任命しました。
史料
 (秋元)但馬守殿被仰渡ニは、其方義先刻浅野内匠頭吉良上野介ニ及刃傷候一件ニ付夫々御咎被 仰付候段存寄再応申立候義尤之至、上を重し申立候は神妙ニ被 思召候得共、執政江対し再応之存寄申立候段は心得違ニ有之候、乍去御役柄ヲ大切ニ存寄申立候は、右様ニ可有之候間差扣ニ不及早々罷出諸向可相勤と被仰渡、夫より同役共申合候処、伝八郎・権右衛門両人副使ニ可罷越趣ニ相定り
伝八郎さんが激怒して報道陣に内幕を暴露
右京太夫さんに庭前切腹について抗議
 大目付の庄田さんが「内匠頭をそなたに預けた上で切腹させよとの命令がだされたので、その用意をして頂きたい」と伝えた。
 多門さんらはそれに対し「切腹の場所をまず検分したい」と言うと、庄田さんは「さっき絵図面で私が見て済んだことである。あなた方の検分は必要ない」と向きになって答える。
 多門さんが再度「とはいえ、私たちは副使なので、あなただけの検使でもない」と言うと、庄田さんは「私が承知した上は副使の指図は必要ないが、お役柄の検分なら仕方があるまい」と答える。
 多門さんらが検分した所が、小書院の庭に涼み台のものをおき、畳を敷き詰めていた。
 多門さんらが右京太夫さんに「内匠頭さんは一城の主、武士道による切腹を命じられたのである。庭での切腹は納得できない。粗略にししても座敷であるべきだ」と申し入れた。
史料
(略)玄関江左(右)京太夫出迎被居候、夫より庄田下総守申渡候ニは、浅野内匠頭其方江御預之上切腹被 仰付候旨申渡候、用意可致候旨申渡、(略)伝八郎・権右(左)衛門両人申候ニは、右切腹之場所一先見分可致之由申候処、下総守被申候ニは、先刻絵図面ヲ以拙者一覧いたし殊ニ相済申候ニ付、御手前様方御見分ニ不及候旨被申候処、伝八郎再応申候ニは(略)乍去副使之役ニ御坐候へは貴所様斗之検使ニも無之(略)、下総守大目付拙者承届候上は副使不及差図候、乍去御目付之御役柄御差図は出来兼候間御見分は御勝手次第可被成候(略)伝八郎・権右衛門両人場所致見分候処、小書院之庭ニ涼台之如く之物ヲ敷詰、白洲之畳を不残敷(略)、伝八郎・権右衛門両人左京太夫江申聞候は(略)一城之あるし殊ニ武士道之御仕置被 仰付ニ付、於庭前切腹と申(義)有之間敷、(略)麁末之御取斗 ひニ而も坐敷ニ可致筈ニ候処難心得候(略)
右京太夫さんは反論する
正使庄田さんの許可を得ていると
 多門さんの申し入れに右京太夫さんも立腹して「大目付に絵図面で検分してもらい、よろしいとお許しを得ている。あなた方の言われることには承伏できない」と反論した。
史料
 左(右)京太夫も立腹之様子ニ而、大目付衆江申立絵図ヲ以入御見分可然趣ニ御達し請候上御手前様御趣意之趣難心得候(略)
正使庄田さんも激怒
「私が大検使だ、任せろ」と
 そこで今度は庄田さんに「検分したところとんでもないことであった。だから『さっき全て手抜きはござらぬか』と申したのに、『手抜きはない』とのお答えであった。私たちが差し出がましいことを言うというのでそのままにしておいたが、果たしてこのような不始末になった。このことは後にあなたとは別に報告するつもりである」と申し入れた。
 それに対して庄田んさんは非常に立腹して、「すきなようにしなされ。大検使のことは私に任せよ。その後別に報告したければそれもよかろう」と言い放った。
史料
 夫より下総守方ニ向逐一見分致候処以之外相違ニ御坐候、夫故先刻より御(懸)合申候処、諸事御手抜無之様ニ御談し申候処逐一言上之由(言上)、御用意之処如何と御尋申候節御手抜(落)も無之段御答 ニ付御任セ申候、何か拙者共差出ケ間敷様被仰聞候故其儘差置候処果而此仕合ニ御坐候、後刻言上は銘々可申上旨厳重ニ申候故、下総守義殊之外立腹ニ而可然可被致、大検使之事ニ候(ニ候得は)、拙者ニ御任せ御銘々より趣意可被申立候(略)
現地リポート(目付多門さんの報告)
内匠頭さんはにっこり
上野介さんの容体が「おぼつかない」と聞き
 内匠頭さんが「上野介はどうなったか知りたい」と言うので、庄田さんは「傷は手当を受け自宅に帰った」と冷たく答えた。
 内匠頭さんがなおも「私が切り付けた疵は二カ所と覚えている。どのような具合であったか」と尋ねるので、多門さんが「おしゃる通り二カ所であった。浅手ではあるが、相手は老人の事で殊に急所でもあり、痛みも強く養生の程はおぼつかないと聞いている」と話すと、内匠頭さんと涙を流さんばかりに、にっことお笑いになった。
史料
 (略)上野介は如何相成候と被承候処、下総守ニ被申候ニは手疵も手当被 仰付候而退出被致候と申候故、(略)先刻私切付候疵二ケ所ニ覚申候、如何ニ御見分被致候哉と之御尋故、伝八郎・権右衛門両人口を揃へ被申侯通り二ケ所有之、乍去浅手ニ有之候得共老人之事殊ニ急(処)故痛強くつかれ被申候間養生之程は如何候哉、無覚束被申聞候へは内匠頭落涙之体ニ而につこと笑ひ被申候(略)
源五右衛門さんの主従の暇乞い
多門さんが許す
 正使の庄田さんと副使の多門さんの間で大口論が始まろうとしていたとき、田村右京太夫さんがやって来て「只今内匠頭さんの家来である片岡源五右衛門がやってきて、私の主人が切腹と聞きましたので、主従の暇乞いがしたい。一目主人に会いたいと言ってきた。どういたしましょうか」という申し出があった。
 しかし庄田さんは一向に答えるでもなく「それくらいのことは大検使たる自分に報告することもあるまい」という感じで、一言も話さなかった。
 そこで多門さんが右京太夫さんに「会わせていいではないか。一目今生の慈悲であるから、私の一存で承知しよう」と答え、庄田さんに「如何ですか?」と聞くと、庄田さんは「そなたの考え次第」と返事した。
史料
 (略)大取合共可相成所へ左(右)京大夫被罷出、只今浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申者罷出、主人義於手前切腹被仰付候段承り主従之暇乞ニ候故一眼主人を見申度段相願候(略)、先御達申候由被申聞候、然処下総守一向無言ニ而夫しきの事大検使江被申達候程之義ニも有之間敷と被申候而不相成共何共一言不被申、伝八郎左(右)京太夫江申聞候ニは不苦候(略)、一眼位ハ生上慈悲故拙者承届候、如何と下総守江申聞候処思召次第と被申候(略)
多門さん本音を報道陣にもらす
「実は辞職を覚悟であった」
 何事についても正使の庄田さんと副使の多門さんとは仲が悪かった。
 だから多門さんが明日は辞職を覚悟でして何事についても口出しをするので、庄田さんは「けしからん」と思っているようだった。
史料
 何事も大検使・副使と不和ニ有之、然処伝八郎(略)明日は退役と覚悟いたし不依何事副使より申出候故下総守以之外之体ニ相見申候(略)
    内匠頭さんは「風さそふ…」の辞世の歌を詠む
 多門さんは内匠頭さんの切腹の場を次のように報道陣に説明しました。
 内匠頭さんが硯箱と紙を望んだので差し出しました。そこへ介錯の刀が着いたので、硯箱を引き寄せ、ゆっくりと墨をすり、筆をとり
 「風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとやせん」
と書き、刀を介錯人の磯田さんに渡して待機していた。
 この歌は御徒目付の水野さんが受け取って右京太夫さんに差し出した。
 介錯人磯田さんは古式にのっとり介錯をして切腹を見届けた。
 死骸などは田村家に任せてあるので、後のことを右京太夫さんに伝えて多門さんらは江戸城に向かった。
史料
 (略)硯筥・紙を乞候故差出候処、刀参り申候内ニ内匠頭硯箱引寄、ゆる■墨を摺筆を取
  風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん
と書て刀を介錯人御徒目付磯田武太夫エ相渡候内相待被居候、右之歌ハ御徒目付水野杢左衛門受取田村左(右)京太夫江差出候ニ付受取被申候内介錯人磯田武太夫古法之通介錯いたし切腹相済見届之返答有之、死骸等ハ田村左(右)京太夫方ニ而取斗候故跡之義は左(右)京太夫江申渡各退散也
庄田さんは無事終了と報告、
伝八郎さんは切腹場所が大変粗略であったと報告、
「執政の柳沢さんが今も江戸城に待機しておられる。
遅くなっては」ということで、明日ということになる
 老中の秋元喬朝さんと若年寄の加藤明英さんの前で、大目付の庄田安利さんが「滞りなく内匠頭さんの切腹を見届けました」と報告しました。
 目付の多門さんらが口をそろえて、内匠頭さんの切腹の場所について私たちは絶対に納得できなかので、その様に申し出た。庄田さんは『さっき絵図面によって承知している』という。そのうえ言い争いになるので一通り意見をいって切腹も終わったが、ことのほか粗略の扱いにつき、一通り申し上げたが、夜も更け先刻より柳沢さんも退出せず待っているので、将軍に申し上げるにはあまりにも遅くなるので明日登城して申し上げなさいということになった。
史料
 (略)秋元但馬守殿若年寄衆ニは加藤越中守殿列席ニ而御逢有之、大目付庄田下総守より申上候ニは、無滞内匠頭切腹見届候趣被申上候ニ付、多門伝八郎・大久保権右衛門口を揃へ申上候ニは、今日内匠頭切腹之場所私とも心底ニ不応候ニ付趣意申出候得共、下総守先刻絵図面ヲ以承届其上差懸り候事故一通り趣意申先事相済申候得共殊之外麁略之取斗ニ付、一通り可申上と申出候処夜も更、先刻より御執政も御退出無之事ニ付、上江申上候余り延引ゆへ銘々明日登 城之上可申上(略)
次の日、柳沢さんは「もう終わったことだ、もうよい」と裁決
庄田さんは「無益な言上をして」と皮肉る
 目付の多門さんらが老中の秋元さんに報告しました。
 秋元さんより柳沢さんへ報告すると、柳沢さんは「もう済んだことである。取り上げるには及ばない」と若年寄の稲垣重富さんに申し渡しました。
 大目付の庄田さんが私たちに面会して「あなたがたは昨日より今朝に至るまで内匠頭さんの切腹の場所について自分たちの考えていたことと違うと言い立ててきたが、お取り上げにはならなかったではないか。ということはあなたががは無益なことを言い立てたということである」と話した。
史料
(略)多門伝八郎・大久保権右衛門より秋元但馬守殿へ言上致、松平美濃守(柳沢吉保)殿江被申上候処相済候事ニ候、御沙汰ニ不及候段可申渡旨美濃守殿被仰渡候趣稲垣対馬守殿被仰渡候ニ付庄田下総守面会ニ而被申候ニは、御手前様方昨日より今朝ニ至り内匠頭切腹之場所不叶御存寄御銘々趣意申被述候処御取用無之候、然ル上は御手前方無益之言上(ニ)可有之と存旨被申候故
伝八郎さんは「お役目上風聞が悪いから言ったのだ」と反論
大目付仙石さんらが双方なだめて無事収まる
 目付の多門さんらが「たとえお取り上げにならなくても、将軍に対して風聞がよくないことを申し上げなくては、お役に立たない」と返答した。
 大目付の仙石久尚さん・同安藤重玄さんが居合わせて双方をなだめたので、何事もなかった。
史料
伝八郎・権右衛門返答ニは、たとへ御取用之御沙汰無之候共 上江対し風聞不宜候儀不申上候而は御役之訳相立不申(略)、其上大目付仙石丹波守・安藤筑後守是又被居合候而双方相なため無事ニ其場は先々引立申候
「内匠頭という官名での切腹には、
それなりの取り扱いが必要
  庭前切腹は、どなたの指図か聞きたい」と
 3月15日昼頃、浅野本家が伊達本家とその分家の田村家に使者を出して次のような申し入れをした。
 「内匠頭が不届きなのは申すに及ばない。切腹を命じられたことは恐れ入ったことではあるが、田村邸での庭前の切腹については何方よりの指図であるか伺いたい。不届きなのは申すに及ばないが、内匠頭という官名での切腹には、5万石の城主としての処分であるのでそのような取り扱いであるべきである」。
史料
 三月十五日昼時ニは松平安芸守(本家浅野綱長)より松平陸奥守(本家伊達綱村)并田村左(右)京太夫(建顕)方へ使者ヲ以申入候(略)、内匠頭不届は不及申切腹被 仰付候儀恐入候得共、左(右)京太夫殿於庭前切腹之義は何方より御差図ニ而御坐候哉承知(致)度候、不届之儀は不及申候得共内匠頭と申官名ニ而御仕置之上は、五万石城主之格ニ而御咎には御座候間、其取扱も可有之哉ニ存候と申遣候由後ニ相知申(略)
浅野本家から老中にも苦情
庄田さんは「気づかなかった」と答弁
伝八郎さんは「気づいて掛け合ったが無益だっと」と反論
 翌16日に登城した所、老中の秋元さんから伝えられた内容は「若年寄衆が出席している所で尋問がある」というもので、それを同僚が言ってきた。
 そこで大目付の庄田さんや目付の多門さんら3人が出かけた。
 秋元さんが「さる14日浅野内匠頭が切腹を命じられたとき、田村邸の庭前にて切腹させたのは粗略なやりかたであると、伊達本家と田村家に掛け合った内容を私(秋元)にも浅野本家から言ってきた。そのことについて、気づいたことはなかったか。そのような粗末な取り扱いもあったならば、取り扱い方もあったであろう。
 それがなく、不念に思し召し、お答え次第で差し扣え仰せ付けられる」と尋ねた。
 庄田さんが「全く心づかなかった」と応えた。
 多門さんらが「そのことについては私たちは気づいたので、何度も掛け合った。大検使の取り扱い、殊に多門さんはさる14日差し扣えになっていたので、何も知らなかった。そこで、切腹場所を見分した所、今言ったように庄田さんに掛け合ったが、私たちの申すことについては無益なような思われた」と応えた。
史料
 翌十六日登 城いたし候処、秋元但馬守殿被 仰渡候趣若年寄衆列座ニ而御糺之義有之段御同朋より申来候間、御定口脇ニ而大目付庄田下総守・御目付多門伝八郎・大久保権右衛門三人可罷出由、則罷出候処但馬守殿御糺ニは、去十四日浅野内匠頭切腹被 仰付候節田村左(右)京太夫宅於庭前切腹為致候段麁忽之致方之趣松平陸奥守(本家伊達綱村)并左(右)京太夫江懸合之趣ヲ以但馬守方ニ安芸守(本家浅野綱長)より被申立候、右ニ付各方大検使・副使之面々不被心付候哉、左程麁末之取斗も有之候ハヽ取斗方も可有之処無其儀不念ニ被思召被仰渡候ニ、御答次第差扣可被仰付と被仰渡候、下総守被申候ニは奉恐入候、全ク心付不申候と御請也、伝八郎・権右衛門両人より御答ニは、其儀私共心付候故再応懸合申候へ共大検使之取斗、殊ニ伝八郎儀は去ル十四日差扣中故諸向不存故場所見分仕候処、右之仕合故下総守へ相答(掛合)候処、私共申立候儀無益之様ニも存候(略)
  庄田さんはお役御免、
    梶川さんは加増500石、
       伝八郎さんには何のお咎めもなし
 3月19日、大目付の庄田さんについては幕府のお考えがあり、大目付を罷免されて、寄り合いとなりました。寄り合いとは旗本で非職の人のことです。
 梶川さんはさる14日に浅野内匠頭さんが吉良上野介さんに刃傷に及んだ時、組み留めたことは殊勝であるとお考えになり、これにより500石加増されました。
 これ以外の人事の変更は何もありませんでした。
史料
 同(三)月十九日庄田下総守儀 思召有之御役御免寄合被 仰付、梶川与惣兵衛義は去十四日浅野内匠頭吉良上野介へ及刃傷候節組留候段神妙ニ被 思召、依之為御加増五百石被下置候、是又同日被仰渡外は何も御役替等も無之(略)

 多門さんの証言
大筋で証明される
 多門さんの発表が「私が…私が…」という部分が多かったので、一部で情報を操作していたのではないかと疑われたこともありましたが、幕府の正式な大目付庄田さんの処分が発表されたことから多門さんの証言は大筋で正しかったことが実証されたことになります。
『徳川実記』の3月19日の条によると、梶川与惣兵衛さんが加増されたという記録がある。
『徳川実記』の8月21日の条によると、大目付の庄田安利さんは「奉職無情とて共に職うばはる」とある。
『寛政重修緒家譜』の8月21日の条によると、大目付の庄田安利さんは「その職にかなはざるにより小普請に貶せらる。(略)罷免」とある。小普請とは非役の旗本・御家人のことである。