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刃傷松の廊下(長安雅山画) |
「易水連袂録」『赤穂義士史料』所収 |
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最近、読者から全文を口語訳して欲しいという要望が多数ありました。 そこで、多くの人が利用して、忠臣蔵論争にも参加できやすいようにと、議論が対立している部分について、原文を提示し、全文を口語訳することにしました。そこはネット社会の威力・魅力です。大いに、議論に参加して、忠臣蔵の発展に寄与されんことを願っています。 直接、原典に接することができるように、出典を明示しています。さらに極めたい方は、原文に直接触れてみて下さい。 |
『易水連袂録』を口語訳(1) (1)「内匠頭さんは、いかなる意趣があったのか、上野介さんと激しく口論」 (2)「上野介さんは、24〜25間ある廊下を逃げる」 |
史料は、「易水連袂録」の一節です。『波賀清太夫覚書』には「易水書物作者御旗本にこれ有る由」とあり、「易水書物」が「連袂録」であれば、旗本の著作物となります。元禄16(1703)年3月に自序を認めていますので、重要な書物です。ただ、この作者が、どの場で刃傷事件を見ていたかが不明で、梶川さん、栗崎さん、多門さんと比較して、私はこの史料の扱いに苦慮しています。 |
「浅野内匠頭さんが殿中で、吉良上野介さんを討ち損じたこと 3月14日、陰天(曇り)、今日将軍家が勅答を仰せになるということで、公家衆が登城しました。浅野内匠頭さんは伊達左京さんと共に登城しました。吉良上野介さんは、大友近江守さんらといずれも柳の間に待機していたとき、公家衆は白書院にご機嫌伺いに行っているのか、間もなく勅答があるというので、緊張しているところに、内匠頭さんはいかなる意趣があったのか、殿中をも憚らず、柳の間にて、上野介さんと何やら言葉荒々しく聞こえてきましたが、頓て(にわかにて)、上野介さんは柳の間を立ち、24〜25間ある廊下を小走りに逃げて行きました。 |
史料(1) |
浅野内匠頭於二殿中一吉良上野介討損之事 一 同十四日、辛丑、陰天、今日将軍家勅答仰出サルヽニ付テ公家衆登城アリ、浅野内匠頭、伊達左京相共ニ登城アリ、吉良上野介、大友近江守等何レモ柳ノ間ニ相詰ラル時、公家衆御白書院ニ伺候有シカ、追付勅答トテヒシメク所ニ、内匠頭イカナル意趣ノ有ケルニヤ、殿中ヲモ憚ス、彼ノ柳ノ間ニテ上野介ト何ヤラコトハアラアラシク聞エシカ、頓テ上野介柳ノ間ヲ立、同二十四五間有廊下ツヽキ小走リニ逃行、 |
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『易水連袂録』を口語訳(2) (1)「小髷を後に切りつけ、振り向く所をさらに一太刀」 (2)「坊主部屋に内匠頭さんと上野介さんを屏風で隔離」 |
「送者之間」へ取り付いた所にある仕切りの大杉戸を押し開き、やっと中に入らんとした所を、内匠頭さんが続いて追い詰め、後より上野介を”逃がさん”とと短刀を抜いて打ちかければ、上野介さんはその日の勅答用の装束で、烏帽子を着ていたので、小髷を後に掛け切り付け、上野介さんが振り向く所をまた一太刀切り付けると、烏帽子があって切れませんでした。切っ先は烏帽子の端に辺り、畳に切り込み、二ケ所とも軽傷でしたので、命を落とすということはありませんでした。少し離れた側にいた梶川与惣兵衛さんというものが飛んできて、内匠頭さんを後より抱きすくめ、”卒爾(軽率な)ことをしたまうな”と。 辺りを見ると、人もいませんでしたので、休和という坊主が遠くで掃除をしていました。彼は、柳の間の廊下の方にて騒がしく聞こえたので、箒を投げて欠(駆)けて来ました。これを見て、内匠頭さんの前より取り付き、かの短刀をももぎ取って、直ぐに肩に引きかけると、梶川さんも一緒に「ツヽシノ間」を通って、坊主部屋(大名などの接待を坊主の部屋)の前に置き、屏風で囲いしました。 他方、上野介さんはケガ、特に老人なので、坊主衆が来て医者の間より肩にかけ、「職責の間」や「鐡蕉の間」と通って坊主部屋の前に置き、屏風を使って隔てました。まず、御外科の栗崎道有が治療しました。 さて、殿中の騒動は上を下へと走り回りましたが、勅答の儀は無事に終わりました」 |
史料(2) |
送者之間エ取付所ニ〆隔ノ大杉戸ヲ押ヒラキ、既ニ内ニ入ントセシ所ヲ、内匠頭續テ追詰、ウシロヨリ上野逃サシト短刀ヲ拔討ニウチカケシカハ、上野其日装束ニテ、烏帽子ヲ著シ申サレシ故、小髷ヲ後ロ掛切付、振向所ヲ亦一太刀切申サレシカ、烏帽子ヨリ切ナカシ、切先ハツレニ當リ、畳ニ切込、二ヶ所トモニ薄手ナリケレハ、命ノサハハナカリケル、遥力側ニ居ケル梶川輿惣兵衛頼知(照下同ジ)ト云者飛来リテ、内匠頭ヲ後ヨリ懐スクメ、卒爾ナシタマフへカラスト、 アタリヲ見レハ、人モナカリシカ、爰ニ休和ト云シ坊主遠キニ掃除シテ有ケルカ、柳ノ間廊下ノ方ニテ物サハカシクキロエケレハ、箒ヲ投ステ欠来リ、此ヲシヲ見テ、内匠頭前ヨリ取付、カノ短刀ヲモキ取テ、直ニ肩ニ引カケシカバ、梶川モ相共ニツヽシノ間通リ引廻シ、坊主部屋ノ前ニ置、屏風ヲ以圍置、 扨又上野介ヲハ手負、殊二老人ナレハ、坊主衆来テ醫者ノ間ヨリ肩ニカケ、職責ノ間ヲ鐡蕉ノ間ヲ通坊主部屋ノ前ニ置、屏風ニテ隔ケル、先御外科栗崎道有療治ス、 扨殿中ノ騒動上ヲ下ヘト走廻リタレ共勅答事故ナク相済 |
出典 「易水連袂録」(『赤穂義士史料下』) |