2G.刃傷松の廊下(常憲院殿御実紀)

吉良上野介(華蔵寺) 浅野内匠頭(大石神社)
「常憲院殿御実紀」(国史大系)
『忠臣蔵第三巻』所収(八木哲浩編、赤穂市発行)

(1)勅使・院使に様々な贈物がありました
(2)護持院の大僧正隆光にも贈物がありました
 史料(1)の口語訳(概略)です。
 「勅使柳原前大納言資廉卿・高野前中納言保春卿に銀200枚、綿100把づつ、院使清閑寺前大納言煕定卿に銀100枚、時服6を与えました。その他の使者・伶工(音楽の演奏をつかさどる官)にも賜物は例年の様に与えられました。
 御台所(将軍の正室で、鷹司信子)よりも留守居番を使者として、勅使に小袖10、院使に6づつ与えました。三丸よりも同じく与えられました。
 また久我中将惟通朝臣・植松侍従雅永朝臣・持明院参議基輔卿・柳原侍従資基朝臣・東坊城侍従資長朝臣・倉橋左馬権助泰章へ方領100俵づつ与えられる旨が伝奏衆に伝えられました。
 又桂昌院殿は、護持院にの大僧正隆光に金5枚、郡内縞15疋、小袖5、女小袖5が与えられました。それにより、御側衆の島田丹波守利由が御使して尼公に対して桧重、大僧正隆光に桧重一組が与えられました」
史料(1)
 ○十四日公卿辞見あり、御かたがたへ御謝答仰含らる、勅使柳原前大納言資廉卿・高野前中納言保春卿に銀二百枚、綿百把づゝ、院使清閑寺前大納言煕定卿に銀百枚、時服六賜ひ、その他使者・伶工賜物例のごとし、
 御台所よりも留守居番御使し 勅使に小袖十、 院使に六づゝたまふ、 三丸よりも同じ、また久我中将惟通朝臣・植松侍従雅永朝臣・持明院参議基輔卿・柳原侍従資基朝臣・東坊城侍従資長朝臣・倉橋左馬権助泰章へ方領百俵づゝ賜ふ旨伝奏衆につたへらる、
 又桂昌院殿には護持院にならせ給ひ、大僧正隆光に金五枚、郡内縞十五疋、小袖五、女小袖五たまふ、よりて御側島田丹波守利由御使して尼公に桧重に折そへて進らせられ大僧正隆光に桧重一組たまふ、

(1)白木書院の廊下で、吉良上野介と立ながら話をしていた
(2)浅野内匠頭が後より”宿意あり”と切り付けた
 史料(2)の口語訳です。
 「今朝、公卿(公は摂政・関白・大臣、卿は大納言・中納言・参議及び三位以上の貴族、ここでは、勅使・院使のこと)が将軍にお目にかかるために、表御殿にお移りになられたところ、留守居番の梶川頼照は御台所(将軍の正室で、鷹司信子)の御使いを命じられ、公卿(勅使・院使)が(早めに)旅館(御休憩所)にやってきたことにより、その事を相談しようと白木書院の廊下で、高家の吉良上野介義央と立ながら話をしていた所に、館伴(饗応役)の浅野内匠頭長矩義央が後より”宿意あり”と言いながら、少さ刀で切り付けました。
 義央が驚いて、振り向いた所を、また、上野介の盾間を切りました。与惣兵衛頼照は、そのまま長矩を抱き留めていましたが、義央の同僚もかけ集り、義央をも引立てて他所に行きました。そこで、公卿の拝謁も黒木書院にて行われることになりました」
史料(2)
 今朝公卿拝謁のため表にわたらせらるゝころ、留守居番梶川与惣兵衛頼照は御台所御使奉はり公卿の旅館に赴くにより、その事議するとて白木書院の廊下にて高家吉良上野介義央と立ながら物語せしに、館伴浅野内匠頭長矩義央が後より宿意ありといひながら少さ刀もて切付たり、
 義央驚き振むく所また盾間を切る、与惣兵衛頼照はそのまゝ長矩を抱留しに、義央が同僚もかけ集り義央をも引立て他所にまかる、よて公卿の拝謁も黒木書院にて行はる、

(1)意趣には”覚ていない”と答え、上野介は乗物で帰宅
(2)内匠頭は、田村右京大夫にお預け
 史料(3)の口語訳です。
 「長矩は、目付の天野伝四郎富重・曽根五郎兵衛長賢が請け取り、蘇鉄の間の杉戸の内に入れて、目付の多門伝八郎重共、ならびに徒小人目付が多く付き添いました。
 先ず、義央に意趣をただされましたが、更に(重ねて)”覚ていない”と言うので、義央は乗物に乗らせて平川門より帰宅させました。
 長矩を、田村右京大夫建顕(一関藩主)にあづけました。館伴(饗応役)は、戸田能登守忠真(下総佐倉藩主)に交代を命じました。
 このようにして、目付の鈴木源五右衛門利雄・(曽根)五郎兵衛長賢を伝奏屋敷に遣わし、長矩の家臣の騒擾(騒動)を静めるよう命じました。親戚の戸田采女正氏定(大垣城主。氏定の母と内匠頭の母が姉妹)にも同じ事を命じ、伝奏屋敷に参りました」
史料(3)
 長矩をば目付天野伝四郎富重・曽根五郎兵衛長賢請取、蘇鉄間杉戸の内に入れて目付多門伝八郎重共并に徒小人目付多くつきそひたり、
 先義央に意趣をたゞされしに、更に覚なきよしを申により、義央は乗物にのらせ平川門より帰宅せしめ、 長矩は田村右京大夫建顕にあづけられ館伴をば戸田能登守忠真にかへ命せらる、
 かくて目付鈴木源五右衛門利雄・(曽根)五郎兵衛長賢をば伝奏邸につかはされ長矩が家人の騒擾を静めしめらる、親縁戸田采女正氏定も同じ事奉りてまかる、

(1)内匠頭の屋敷に目付や親戚を派遣する
(2)上野介の屋敷に高家の同僚を派遣する
 史料(4)の口語訳です。
 「長矩の屋敷には、目付の伝八郎富重(天野伝四郎)・近藤平八郎重興を遣わしました。親戚の采女正氏定・水野監物忠之(岡崎城主)・小姓組番頭戸田伊豆守政倚(内匠頭の伯父内記長賢の女婿)・山田奉行浅野美濃守長恒(長矩の父長友の弟)らも長矩の屋敷に遣わしました。
 義央の屋敷にも、高家の品川豊前守伊氏・目付逸見五左衛門義永を遣わしました」
史料(4)
 長矩が宅には目付伝八郎富重(天野伝四郎)・近藤平八郎重興つかはされ、親縁采女正氏定・水野監物忠之・小姓組番頭戸田伊豆守政倚・山田奉行浅野美濃守長恒をもつかはさる、義央が宅にも高家品川豊前守伊氏・目付逸見五左衛門義永をつかはさる、

(1)目付の多門伝八郎らが内匠頭に切腹を命ず
(2)その理由は「時節や場所を弁えず、正しくないふるまいをした」と
 史料(5)の口語訳です。
 「この夜、大目付の庄田下総守安利・目付の大久保権左衛門忠鎮・多門伝八郎重共を田村右京大夫建顕の屋敷に派遣して、長矩に切腹を命じました。
 その理由は、”時節や場所を弁えず、ひが(僻=正しくない)挙動(ふるまい)をした”として
 この長矩は、浅野采女正長友の子です。延宝3(1675)年3月23日に家督を相続し、5万石を領し、同じ年の4月7日、将軍と初めて謁見しました。
 延宝8(1680)年8月18日、叙爵して内匠頭と称し、没年は35歳だったそうだ」
史料(5)
 この夜大目付庄田下総守安利・目付大久保権左衛門忠鎮・多門伝八郎重共を右京大夫建顕が宅につかはされ長矩に死をたまふ、
 時所をもわきまへずひが挙動せりとてなり、
 この長矩は采女正長友が子なり、延宝三年三月甘三日家つぎ五万石を領しその四月七日初見し、
 八年八月十八日叙爵し内匠頭と称し三十五歳なりしとぞ、

(1)上野介には「罪なきにより治療せよ」と
(2)将軍綱吉の伝言を同僚や大目付が伝える
 史料(6)の口語訳です。
 「また、義央は、罪なきによって刀傷の治療をするようにとの将軍綱吉の伝言を高家の畠山民部大輔基玄・大友近江守義孝・大目付の仙石伯耆守久尚が伝えました」
史料(6)
 また義央は罪なきによて刀疵治療すべしとの御旨を高家畠山民部大輔基玄・大友近江守義孝・大目付仙石伯耆守久尚つたふ
 史料忠臣蔵は(1997年8月14日にアップしています)→「為になるが、難しい、面白くない」という意見が多くありました。
 現在は、読者の方の要望で「忠臣蔵新聞」をアップしています。「為になる、分り易い、面白い」ということをモットーにしています。