「長岡記録」『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行) 長岡記録−一関藩家中長岡七郎兵衛記録(一関市立図書館所蔵) |
@(a)長岡記録 (略)「九半時時計之間次江我等(田村右京太夫建顕)を相模守殿(老中土屋政直)御呼候而浅野内匠事 其方江当分被成御預候、早々引取申候様ニと被仰聞候(略) |
幕府は「相模守殿(老中土屋政直)御呼候而浅野内匠事其方(田村建顕)江当分被成御預候、早々引取申候様」に申し渡す(長岡記録)。 |
A(b)長岡記録 (略)「七時少し前(大目付)庄田下総守・(目付)大久保権左衛門(忠鎮)・多門伝八(重共)郎被参我等江も御用有之由被申候付居間江通申候、内匠事所柄時節旁以不届至極成儀共故切腹被仰付候間、此段右京江も為申聞候様ニと相模守(老中土屋政直)殿被仰候由下総守被申候」 |
庄田は田村に「内匠事所柄時節旁以不届至極成儀共故切腹被仰付候」という幕府が下した浅野内匠頭への処分を伝える。 |
B(b)長岡記録 (略)「切腹場所出会之間庭ニ莚を広く敷、其上畳を敷之毛氈構置申候」(略) |
長岡記録では、最初から「切腹場所出会之間庭ニ莚を広く敷、其上畳を敷之毛氈構置申候」とだけ記されている。 |
C(a)長岡記録 (略)「上意之趣庄田下総守申渡 其方儀意趣有之由ニて吉良上野介を理不尽ニ切付殿中をも不憚時節柄と申重畳不届至極候、仍而切腹被 仰付候由内匠御請 今日不調法成仕方如何様ニも可被 仰付儀を切腹と被 仰付難有奉存候」(略) |
長岡記録では、庄田は浅野内匠頭に「其方儀意趣有之由ニて吉良上野介を理不尽ニ切付殿中をも不憚時節柄と申重畳不届至極候、仍而切腹被 仰付候」と幕府の決定を伝える。それに対して「内匠御請 今日不調法成仕方如何様ニも可被 仰付儀を切腹と被 仰付難有奉存候」と答える。 |
D(c)長岡記録 「切腹之場御歩行目付・御小人目付並居候、此方之者一切入申間敷由差図ニ付任其意候」 |
しかし長岡記録では、「切腹之場御歩行目付・御小人目付並居候、此方之者一切入申間敷由差図ニ付任其意候」とあり、片岡源五右衛門が幕府の重大事項に関わりをもてるとはとても考えられない。これは多くの人が指摘するように多門のフィクションであろう。 |
D(e)長岡記録 「今日内匠請取候以後番人江被申候は、家来方江手紙遣し度候、苦間敷候哉と之儀故其段は伺不申候而は不罷成候よし致挨拶候、左候ハヽ此段兼て為知可申候へ共今日不得止事候故為知不申候、不審ニ可存候由右 之通口上ニて申遣度よし被申候故、覚書ニ致し御目付衆も被参候而申談 右書付は大学家来江為見候而渡申候」 |
長岡記録では、浅野内匠頭が手紙を書いておきたいというと幕府に伺いをたてる必要があると答えた。そこでこの口上を「家来田中(ママ)源五左衛門・礒田七郎左衛門と申者」に伝えてもらいたいと言った。その内容は「此段兼て為知可申候へ共今日不得止事候故為知不申候、不審ニ可存候」というものである。これを「覚書ニ致し…右書付は(死骸を引き取りにきた)大学家来」に見せて渡したとある。 |
D(f)長岡記録 (略)「介錯御徒目付之内磯田武太夫則相仕舞首を差揚検使江見之」(略) |
切腹の現場は残酷である。介錯の磯田武太夫は「首を差揚検使江」見せたとある。 |
E長岡記録 (略)「右相済即刻庄田下総守を始御役人中不残被罷帰」(略) |
庄田らが帰城する。 |
F(a)長岡記録 「右内匠死骸近キ親類江引取候様ニと可申遺旨御老中江も得御内意候由、庄 田下総守殿演説ニ付而内匠儀浅野大学(長広)方江早速以手紙申遣候処奉得 其意由ニ而家来(留守居)建部喜六・糟谷勘左衛門両人を以請取度由申越 候、右両人江家来共出会対談死骸并小サ刀、大紋・鼻紙袋・烏帽子為渡之候、以上」 |
田村は「内匠儀浅野大学(長広。内匠頭の弟)方江早速以手紙申遣候」。それにより「家来(留守居)建部喜六」らが派遣された。 |