| 「北郷手控」『忠臣蔵第三巻』(赤穂市発行) 北郷手控−一関藩家中北郷杢助手控(一関市立図書館所蔵) |
| B(c)北郷手控 (略)「内匠殿切腹之場所最初ハやはり御坐敷之内、左候ハヽ御上使ト一間一席 ハ不可然候間、間を隔段違ニ可然と申吟味之時ニ御出会之間急ニ段違可仕様 無之、行当申候と本〆中より申出候所ニ杢助指図ニ而早速段違出候積ニ成 候、庄田様御出場所御吟味之処ニ庄田様御申ニ、先刻相模守殿(老中土屋政直)江此義は得御指図候、白砂ニ而と被仰聞候間、其通りニ被成候様庄田様御申、其通ニ御用意之事」(略)「内匠殿死骸請取人出入死骸出し候節も馬場之口より相通ス、御門よりは出入も無之候」 |
| 北郷記録では、「内匠殿切腹之場所最初ハやはり御坐敷之内」とあり、座敷内を考えていた。ところがそうなると上使と同じ部屋になるので、大検使の庄田に相談すると「庄田様御申ニ、先刻相模守殿(老中土屋政直)江此義は得御指図候、白砂ニ而と被仰聞候間、其通りニ被成候様庄田様御申、其通ニ御用意之事」と記録されている。 また、死骸は御門からではなく、馬場之口から出された。 |
| 長岡記録B(b)、北郷手控B(c)から総合して、庄田の計らいで庭に決定したことは事実だが、庄田と多門の確執がなかったという説もある。これについて後に庄田が御役御免となっていることから、筆者は確執はあったと思う。 |