| 「徳川幕府御日記」(東京大学史料編纂所所蔵) 『忠臣蔵第三巻』所収(八木哲浩編、赤穂市発行) |
| 史料@ (元禄一四年)三月十四日曇(略) 一 今日 勅答以前御白書院大廊下ニ而 勅使御馳走人浅野内匠頭儀高家吉良上野介江意趣有之由にて理不尽に切付之(略) 大目付・御目付右之段申上付而(側用人)柳沢出羽守・老中松平右京大夫(輝貞)・若年寄中於土□間次旨趣委細聞届之則達 上聴御僉議 在之処、上野介は何之覚も無之段申上之 |
| 幕府の公式記録によると、勅答以前に浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に意趣があり、理不尽にも切りつけた。大目付らは取り調べの結果を、側用人柳沢吉保らに報告した。 吉保らはそれを将軍綱吉に伝え、上野介は「何之覚も無之」ということになった。 |
| 史料A 一 左之通被 仰出之 吉良上野介 浅野内匠儀折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段不届に被 思召、内匠儀ハ御仕置に被 仰付之、上野介儀御構無之間手疵養生仕様にと被 仰付之 巳三月十四日(略) 一 左之通被 仰付之 浅野内匠 吉良上野介江意趣有之由にて折柄と申不憚 殿中理不尽に切付之段重々不届至極に被 思召依之切腹被 仰付者也 巳三月十四日 |
| ここでは時(折柄)と場所(殿中)をわきまえず切り付けたのは不届として、被害者の上野介には養生をするようにといい、加害者である内匠頭には「重々不届至極」として切腹を申し渡している。当時の幕府の状況把握がどんなものかよく出ている。 |
| 史料B 依之田村右京大夫宅江下総守罷越内匠江申渡之、則於彼宅令切腹為検使御目付多門伝八郎(略)罷越(略) |
| ここでは検使御目付に多門伝八郎が派遣されたことが記されている。 |