5C.幕府の反応(常憲院殿御実紀)

吉良上野介(華蔵寺) 浅野内匠頭(大石神社)
「常憲院殿御実紀」(国史大系)
『忠臣蔵第三巻』所収(八木哲浩編、赤穂市発行)
 『常憲院殿御実紀』の「元禄一四年三月一四日条」にはどのように書かれているのでしょうか。
 「世に伝えられている所(世間の噂)では、吉良上野介さんは、歴代に天皇に対して高家職にあり、長年朝廷に儀式に関係してきたので、公(朝廷)(幕府)武の礼節典故を熟知精錬している人は、上野介さんの右に出る者はいません。
 そこで、名門や大大名の家でも、自分の考えを曲げたり、折ったりして、上野介さんの機嫌をとり、従って、その都度、教えを受けたりしています。そうなると、自然に、上野介さんは賄賂をむさぼったりして、吉良家は巨万の富を重ねているといいます。
 しかし、長矩さんは、機嫌をとったり、へつらうことをせず、この度、ご馳走役を任命されても、義央さんに財貨(金品)を贈らなかったので、義央さんは密かにこれを憎んで何事も長矩さんには教えなかったこともあって、長矩さんは時刻を間違ったり、礼節を失うことが多かったということがあったので、これを恨んで、かかること(刃傷)に及んだということである」
*解説:世間の噂といえ、幕府の公式記録に、刃傷事件の原因を吉良さんのイジメと指摘しています。人の噂も45日(1カ月半)といいます。江戸時代を通じて「噂」が消えなかった理由を探り必要があります。
 私は、判官びいきとか、将軍綱吉さんと柳沢吉保さんの恐怖政治に、吉良上野介さんが参加していたことが背景にあると考えています。
 みなさんは、いかがでしょうか。
史料
 世に伝ふる所は、吉良上野介義央歴朝当職にありて積年朝儀にあづかるにより公武の礼節典故を熟知精練すること、当時その右に出るものなし、よて名門大家の族もみな曲折してかれに阿順し毎事その教を受たり、されば賄賂をむさぼり其家巨万をかさねしとぞ、長矩は阿諛せず、こたび館伴奉りても義央に財貨をあたへざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて何事も長矩にはつげしらせざりしはどに、長矩時刻を過ち礼節を失ふ事多かりしほどに、これをうらみかゝることに及びしとぞ
史料忠臣蔵は(1997年8月14日にアップしています)→「為になるが、難しい、面白くない」という意見が多くありました。
現在は、読者の方の要望で「忠臣蔵新聞」をアップしています。「為になる、分り易い、面白い」ということをモットーにしています。