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1614(慶長16)年〜1615(慶長18)年発行(第005号)
忠臣蔵新聞

ドキュメント大坂の役

浅野長重(長政の三男)さんが真田幸村さんの攻撃でピンチの家康さんを救う

京都方広寺の釣り鐘 国家安康君臣豊楽と読める

冬の陣
左中央に浅野長晟の名が見える
1614年 5月   豊臣家が建立した方広寺の鐘に刻まれた銘文(国家安康君臣豊楽)を
口実に、家康さんは豊臣方に戦いをしかけました(方広寺鐘銘事件)。
10月 6日頃 細川忠興・浅野長晟さんらは家康方につくことを誓いました。
19日 家康さんは「本多正純・浅野長重ほか中国・四国の諸将に檄を飛ばせ」
と指示をだしました。
11月 6日 家康さんは浅野長晟さんに「住吉に行け」と指示しました。
18日 上図のような包囲網が完成しました。
19日 浅野長晟さんら7000人は、物資搬入ルートの砦(木津川と尻無川の
合流する河口)を攻略しました。
25日 藤堂高虎・浅野長晟さんに宛てた内応の手紙を持った間者が捕まりま
したが、家康さんはすぐこれを偽物と見破りました。
27日 家康さんは「浅野長晟内応」の噂を聞いて、長晟さんの陣の後ろに伊
達正宗さんの陣を移させましたる。これは大坂方の大野治房さんの謀
略と言われています。
12月 17日 塙団右衛門さんが夜討で中村重勝陣を襲い、数十人を殺しました。
18日 徳川方の大砲攻めにより、大坂方は講和に応じました。
19日 「大坂城は本城だけ残し、ほかは破壊して平地にする」という条件で
和議が成立しました。
25日 家康さんは、大坂城の総堀りの埋め立てを見て、大坂をはなれました。

夏の陣
左下に浅野長晟の名が見える
1615年 4月 21日 家康さんは、秀頼さんの大和への移封を命じました。
28日 塙団右衛門さんは3000人を率いて、大坂城を出発し、南海道紀州路へと南
進しました。これは和歌山から北進する浅野長晟さんを叩くためです。長晟さ
んは大坂城で秀吉さんに仕えた身でありながら、秀頼さんから度々の要請を断
って、徳川方につき、大坂方の憎しみを一身に背負っていたからです。五奉
行は浅野家以外すべて大坂方についていましたから、よけいです。
29日 しかし塙団右衛門さんは対浅野の先陣を自任してしていたのに、岡部大学さ
んが先行しているという情報を聞き逆上してしまいました。団右衛門さんは和
泉樫井(かしい)村で長晟さんの率いる5000人と遭遇しました。そして長晟さ
んの弓の名手多胡さんに体を射ぬかれ、槍の浅野さんに突かれて戦死してし
まいました。この位置では長晟さんが勝利をして、家康さんを喜ばせました。

大坂城終に玉造口より破れて寄手の惣軍乱入す(黒地に白餅が浅野長重隊)
下から二段目中央に浅野長重さんの名が見える
1615年 5月 7日 いよいよ決戦の日となりました。大坂城の玉造口より本多忠政・松平忠直・
浅野長重(長政さん三男坊で長晟さんの弟)さんらが大坂城に突入しました。
 (真田幸村さんは意地で家康さんの本陣に突っ込み、家康さんも「もはや
逃れがたい。ここで腹を切る」と二度まで言わせましたが、長重さんらがこの
場をよくしのぎました
午後四時 大坂城は落城し、その燃え上がる炎は夜半まで消えることはあり
ませんでした。
8日 淀君さん、大野治長さんら20人と自害する。

浅野長晟さんてどんな人
 1614(元和元)年大坂冬の陣に出陣して功をあげ、またよく国内の一揆を平らげました。
 翌1615年夏の陣に大野治房・塙団右衛門さんらを和泉樫井に討って大功をたてました。この間、大坂と通じた国内の吉野・熊野などの一揆を平らげて治国の基を築きました。
 夏の陣の翌1616(元和二)年正月家康さんの三女振姫さんと結婚しました。
 1619(元和五)年武家諸法度違反により福島正則さんが改易されました。その結果、安芸国・備後半国四十二万六千余石に加増されて広島城に移りました。

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