1614年 |
5月 |
|
豊臣家が建立した方広寺の鐘に刻まれた銘文(国家安康君臣豊楽)を
口実に、家康さんは豊臣方に戦いをしかけました(方広寺鐘銘事件)。 |
10月 |
6日頃 |
細川忠興・浅野長晟さんらは家康方につくことを誓いました。 |
19日 |
家康さんは「本多正純・浅野長重ほか中国・四国の諸将に檄を飛ばせ」
と指示をだしました。 |
11月 |
6日 |
家康さんは浅野長晟さんに「住吉に行け」と指示しました。 |
18日 |
上図のような包囲網が完成しました。 |
19日 |
浅野長晟さんら7000人は、物資搬入ルートの砦(木津川と尻無川の
合流する河口)を攻略しました。 |
25日 |
藤堂高虎・浅野長晟さんに宛てた内応の手紙を持った間者が捕まりま
したが、家康さんはすぐこれを偽物と見破りました。 |
27日 |
家康さんは「浅野長晟内応」の噂を聞いて、長晟さんの陣の後ろに伊
達正宗さんの陣を移させましたる。これは大坂方の大野治房さんの謀
略と言われています。 |
12月 |
17日 |
塙団右衛門さんが夜討で中村重勝陣を襲い、数十人を殺しました。 |
18日 |
徳川方の大砲攻めにより、大坂方は講和に応じました。 |
19日 |
「大坂城は本城だけ残し、ほかは破壊して平地にする」という条件で
和議が成立しました。 |
25日 |
家康さんは、大坂城の総堀りの埋め立てを見て、大坂をはなれました。 |