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1666(寛文6)年10月3日発行(第007号)

忠臣蔵新聞

山鹿素行さんは幕府の採用している朱子学を次のように批判
「書物の上の知識をふるまわすのみで、日用事物の上に役立っていない」
「自分の教え(聖学)こそ朱子学に代る学問である」と主張

山鹿素行さん(45歳)、赤穂に流罪


山鹿素行さん  江戸初期のスーパースター
山鹿素行さん
 1622(元和8)年に会津若松で誕生しました。徳川家康さんの家庭教師林羅山さん(48歳)は、9歳の素行さんに「論語の序文」を読ませるというテストをして、めでたく合格したということですから、素行さんは天才だったのでしょう。所で、羅山さんが唱えた朱子学とは「君臣・父子の別をわきまえ、上下の秩序を重んじる」学問です。

武田信玄さん 隠元禅師
 15歳の時、素行さんは武田信玄さんの系統を引く甲州流軍学者小幡景憲さん(65歳)とその弟子北条氏長さん(28歳)に師事しました。景憲さんは武田信玄さんの武者奉行小幡昌盛さんの3男で、信玄さんの子供である勝頼さんが死んだ時、徳川家康さんが2代将軍秀忠さんのために侍童として抜擢した方です。
 また、日本に黄檗宗を伝えた明僧隠元禅師とも問答したのが、37歳の時です。

そんな山鹿素行さんが、
赤穂とどんな関係があるの?
スーパースターが赤穂築城に協力
徳川家綱さん 保科正之さん
 30歳の時、将軍家光さんが死亡したのをきっかけに、由井正雪さんが事件を起こしました。家綱さんが4代将軍となり、おじさんの保科正之さんが、将軍を補佐しました。正之さんは、吉良義央さんの義兄上杉綱勝(義央さんの奥さんのお兄さん)さんの先妻のお父さんでもあります。正之さんは、由井正雪さんの事件を反省して、文治政治(特に朱子学により統治)に力をいれます。
 31歳の時、赤穂藩祖浅野長直さん(歳)の招きで、江戸屋敷で藩士に兵学を教えています。素行さんの禄は1000石で、ちなみに赤穂家老大石家の録は1500石ですから、厚遇であったことがわかります。
 32歳の8月に、素行さんは江戸を出て、9月に赤穂に着きました。赤穂にわずか7カ月滞在していますが、この間二の丸廓虎口の縄張りをしています。『山鹿素行先生日記』によれば、「大守縄張二廓虎口、招僕談之、大守自臨其地、…僕取間縄改直之…」とある。
 39歳の時、赤穂藩での致仕(就職)を辞退しています。赤穂藩に勤めた期間は7年10カ月にわたっています。

素行さん、幕府を批判して赤穂に流罪
聖教要録
 45歳の時、『聖教要録』により幕府の御用学問である朱子学を批判したことにより、赤穂に流罪となる。

素行さんの『聖教要録』とは何か
 44歳の時、『聖教要録』(1665年)を発表しました。そこで、素行さんは「世間(現実の社会)と学問(朱子学の理想)とは別の事に成候」(『配所残筆』)と指摘し、世間一般の儒者は「口に聖教を唱へて、其の志す所は顔子(孔子の弟子)が楽(たのしむ)処、曾点(曾子の父)が気象」(『聖教要録』)となっている。つまり、幕府つまり保科正之さんの採用している朱子学は、今や「中国の、しかも書物の上の知識をふるまわすのみで、日用事物の上に役立っていない」と批判し、自分の教え(聖学)こそ朱子学に代って封建的支配者に奉仕する御用学問であると主張したのでした。これに激怒したのが正之さん、以前から快く思っていなかったのが素行さんの軍学の先生で大目付である北条氏長さん。二人が共謀して、素行さんの流罪を決めたと言われています。
参考文献
堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書)
岩波書店『山鹿素行』(日本思想史体系)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣出版)など
『世界人物逸話大事典』(角川書店)
新人物往来社『図録日本史の人物2000』

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