1681(天和元)年11月3日発行(第008号)
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| 山鹿流の陣太鼓をたたいて討ち入りする大石内蔵助(大石神社絵馬) | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 義士新聞社からのお知らせ このワープどこでも取材班は、読者の要望により登場しました。 その任務は、事件や事項があった時より、未来にタイムスリップして、その事件や事項を検証しようというものです。 この取材班の登場により、歴史に深みと厚みが出てきて、読者の皆さんの色々な疑問を解決してくれると確信いたします。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| この年の有名人の年齢(1681年) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 山鹿流陣太鼓はフィクション | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 素行さんが亡くなって17年後の1702(元禄15)年12月14日に大石良雄さんらが吉良義央さん邸を襲撃したとき、山鹿流の陣太鼓をたたいたと言われていますが、本当でしょうか? 1681(天和元)年11月に素行さんは浅野長矩さんに押太鼓を貸したという史料があります。でも、討ち入り前の12月2日に「人々心覚」を決めましたが、そこには義央の首をとったら小笛を吹く、全員が引き上げる時には鉦をうつという史料があるだけで、陣太鼓のことは出てきていません。また、陣太鼓は敵との距離を味方に知らせるものであるという説もあり、どうやら良雄さんが陣太鼓をたたいて討ち入ったという話はフィクションといえます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 大きかった 山鹿流兵学の影響 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| では、全く山鹿流兵学は影響がなかったのかという点を調べてみました。 山鹿流兵学とはどんなものか 24歳の時、小幡景憲さんの弟子北条氏直さんから北条流兵学の免許を許された。北条流兵学とはどんか考えか。氏直さんは『士鑑用法』という本の中で「孫子ニ兵ハ詭道ナリトアルヲ、ア(悪)シク心得テ…」と書いているように、兵法とは武士が平常守るべき法であり、まず自分の心を治め家を斉(ととの)え国を平(たいらか)にすることであると述べている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 赤穂城築城と山鹿流兵学 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 35歳の時、江戸で武教三部作を書いています。『武教全書』(山鹿流兵学の教科書)によれば、次のような項目(用士…地形・斥候…行軍…築城…攻城・守城…夜戦…戦法・兵具)について簡潔に書いている。例えば、四神相応の地形の事については、「東に小河・田沢があって青竜という。南に流水があって朱雀という。西に道があって白虎という。北に山林があり玄武という」とある。赤穂城は、東に千種川があって青竜、南に瀬戸内海があって朱雀、西に備前街道があって白虎、北に山崎山より雄鷹台・黒鉄山があって玄武となっているので、素行が言う四神相応の地形といえる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 山鹿流兵学の特徴は儒学と兵学の一致 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| まず、第一に文武を一致させ、道徳と兵法を一致させる。 第二に中世的な神儒仏老の四教一致思想を否定し、朱子学を中心とする近世武士道を主張しています。 第三に実学つまり社会人としての道の強調、治法の重視しています。これが師である、大目付である北条氏長さんとの対立点です。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| この教えが、討ち入りのバックボーン | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 『山鹿語録』(1665年)には「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」とある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 素行さんの弟子で討ち入りした人はいない!? | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 堀勇雄さんは、『山鹿素行』という本の中で、「四十七士のうち、素行に学んだとの確証のある者は一人もいない」「浅野長矩は…幕府によって処罰されたのであり、素行の考え方からすれば幕府の命令は天子の命令と同様に従うべきもので、…しかも彼らの復讐の計画は公儀の免許を得ず、徒党を組み飛び道 具(弓)を以て押入るのであるから、素行の思想からすれば幕命に叛く許すべからざる暴挙である」「『山鹿語類』に「君の讎(あだ)を奉ずる事、是れ勇士の節に死する大義也」と説かれているが…「次に復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、其父兄の殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也(「全集」)」をあげ、素行さんの思想を正しく理解すれば、討入りはしないと述べています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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| 素行さんは仇討ちを予言していた!? | ||||||||||||||||||||||||||||||
| 一方、東条琴台さんは『先哲叢談後編』で、次のような素行さんの逸話を紹介しています。「素行は、赤穂侯長友に、死をもって旧恩に報いたいが、太平の世にはその機会もないと歎き、次のように言って侯を喜ばせた。すなわち、自分は侯の諸臣に儒学と兵法を教えたが、皆見事に会得してくれた。従って、もし人倫の道にはずれた異変がおこれば、必ずや君の命に従い、命がけで事に当たるだとう、と。はたして五十年後、その子長矩が死を賜ると、遺臣四十七名、吉良邸を襲撃し、長矩の志に殉ずるという赤穂義士の仇討が起こった」。 | ||||||||||||||||||||||||||||||
| ワープどこでも取材班としても、色々調査した結果、やはり素行さんの思想的影響力は直接・間接にあったと感じました。 (1)大高源五さんがお母さん宛の遺書に「私たちは義のために決起する」と書いています。 (2)早水籐左右衛門さんもお兄さん宛の遺書に「身を捨て、亡君の志を継ぐのが義である」と書いています。 「義」こそが幕府の文治政治が求めたものであり、素行さんの中心課題です。 |
| 参考文献 堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館の人物叢書) 岩波書店『山鹿素行』(日本思想史体系) 廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣出版)など 『世界人物逸話大事典』(角川書店) 新人物往来社『図録日本史の人物2000』 |