1652年発行(第012号)
長直さん、塩田開発にも取り組む(約130町歩の成果)
| 赤穂城築城の財源を求めて | ||
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| 長直さん、塩田開発にも取り組む | ||
| 約130町歩の成果 | ||
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| 長直さんがどれほど精力的に塩田を開発したかを調べてみよう。 御崎新浜村に29町5反9畝9歩 唐船に33町9反4畝20歩 唐船外に9町1反4畝6歩 塩屋村に28町1畝5歩 加里屋村では1666(寛文6)年の検地帳に17町4反4畝5歩とあることから、6町歩余が開発していることがわかる。 つまり浅野時代の塩田の開発は a.東浜(千種川以東)で約93町歩 b.西浜(千種川以西)で34町歩 c.合計127町歩余(銀に換算して年に7480匁を得たことになる) | ||
| 長直さん、塩で5987石の財源を獲得(27年間で) | ||
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| 企業秘密はマニュファクチュアの育成 | ||
| 赤穂塩、江戸へ進出→吉良塩と衝突 | ||
| 長直さんは、塩田経営面積の基本単位を1町歩としてこれを1軒前とする。浜男・浜子を賃金労働者として、協業による生産を行わせるという、いわゆる製塩マニュファクチュアを確立したのである。 | ||
| 孫の浅野長矩さん(例の赤穂事件の主役の一人)の時に、大野九郎兵衛さんが藩札の発行に踏み切りました。 これにより塩田からの収入を増加させ、また、塩の生産と販売を一手に赤穂藩が握ることになりました。 同時に貨幣経済の浸透は、農村・漁村社会の分解を招き、没落した地主が浜子として賃銀労働者となり、一層のマニュファクチュウア化が進みました。 その結果、赤穂塩はどんどん江戸に進出し、吉良塩と競合し、良質の赤穂塩は吉良塩を侵食していきました。赤穂事件の遠因はここらあたりにあるのではないでしょうか。 | ||
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| 塩田用の薪と入会権はどうなったか | ||
| 新田が出来ると煮炊き用したり田の肥料としての刈敷が必要になります。また塩田が開発されると釜をたく薪が必要になりなす。 当然、浅野長直さんは湯ノ内山の入会権を認め、薪を取得することを許可しております。 これはずーっと後の事ですが、1720(享保5)年に山論が起こっています。その時の史料を見てみましょう。 塩屋村の人は「新田村が薪山に入るのは浅野長直さんが新田をつくられたとき入会を許され刈り取らせるよう仰せ出された」と言い、西有年村・楢原村らの人も「長直さんが入国され新田村が出来ましたが、新田村は生活する山もなく永々入るようにと仰せられ…」と認めています。 でも、本音はどうであったのでしょうか。西中正次郎『新田村との山論』で、そのあたりを検討してみましょう。 明治新政府は山林に対する地券発行のための調査をしました。このとき、新田村の人は『所有する山林を持たず、浅野長直侯の指令によって塩屋山への入会権を持っている』と主張しました。それにたいして塩屋村の人は『私たちには、山林の所育権がありそのための年貢も納めている。新田村が主張するような入会山ではない』と反論して、新田村の入会権を拒否しております。 これを見ても、権力者による新政策が地元の人々を対立させる要因になっていることがわかります。 |
| 参考資料 八木哲浩監修『赤穂市史第二巻』(赤穂市) 廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣) 岡田順一『新田の歴史一先人の遺産』 赤穂民俗研究会『赤穂の民俗その六一塩屋編』(赤穂市教育委員会) 廣山尭道編『赤穂塩業史』(赤穂市役所) 松岡秀夫編『ふるさとの思い出写真集一赤穂』(国書刊行会) 赤穂市立歴史博物館編『常設展示図録』(赤穂市立歴史博物館) |