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1652年発行(第011号)

忠臣蔵新聞

長直さん、新田開発に取り組む(約100町歩の成果)

上水道の導水路と熊見川の流路(『赤穂市史第二巻』)

赤穂城築城の財源を求めて(その1)
浅野長直さん、3つの方法を検討
 その一つが年貢を増やす方法です。
 でもこれは、前任者の池田さんが実施していてこれは断念ししました。
 次に浮かんだのが新田を開発する方法です。これは可能です。今回はこれを取り上げます。
 三つめが塩田の開発です。これも可能です。これは次回にします。

長直さん、新田開発に取り組む
約100町歩の成果
 長直がさんが1671(寛文11))に幕府に願い出た「知行之儀奉願侯覚」 (『久岳君御伝記』)を見ますと、着任当初の新田や新畑は1865石9斗5升3合となっています。
 次に、1673(寛文13)年の記録を見ますと、5710石8斗3升2合となっています。このことから、長直さんが開墾した新田の面積は95町2反余(3844石8斗7升9合)であることがわかります。
20年がかりで新田村が誕生
 『赤穂の民俗塩屋編』の「新田の開拓」がその間の事情を的確に表現しているので、ここにそのまま紹介します。
史料・解説
 新田(村)の成立について、『赤穂郡誌』は次のように記載している。すなわち「新田村ハ赤穂城主浅野長直ノ世迄ハ沼沢ノ地ナリシヲ、長直土功ヲ起メ、鷆和村戸島ノ土ヲ以テ之ヲ埋メ、以テ之ヲ開キタリ、故今二新田ヲ指メ、戸島新田ト呼フナリ」と。
 新田の干拓は正保三年(一六四六)から始まった。まず船渡の裏側に堤防を築き、ここで大津からイララ山の裾に沿い海へと流れていた大津川を堰き止め、流れを大きく西にふって天王山の山裾へ変える工事から始められた。この工事の完成により大津川河口の泥湿地約一〇〇町歩が得られ、この土地に戸島から土砂を運び入れて、埋め立てたのであった。
 この干拓工事と並行して灌激用水(戸島用水)工事も進められた。長直はこの新田への灌概用水を赤穂上水道に求めた。この赤穂上水道は、元和年間に赤穂郡代垂水半左衛門が城下(加里屋)の生活用水を得る目的で造ったものである。根木の通称切山を約五〇間掘鑿して燧道を通し、これより千種川の水を目坂−木津−浜市と雄鷹台から山崎山への東麓を南流させ、山崎山南より加里屋へと導水したものであった。この時長直は、取水口を根木切山から根木船渡に変更して千種川からの取水量を増やし、山崎山南に戸島桝を築き、ここから新田への導水路を造成したのであった。この干拓・導水路工事は約二〇年の歳月を要して完成したが、この間赤穂藩は塩屋近隣の村々だけでなく有年・若狭野、さらには赤松など赤穂郡一帯から農家の二、三男を多く駆り出したという。そのため工事終了後、彼等の中には帰郷せず新田(村)にそのまま居着いた者も多かった…。

根木切山隧道 高雄船渡の井堰
木津の井堰 野中の井堰
山崎山下の戸嶋桝

新田を潤す潅漑用水のルート
メインルート
根木の切山隧道→高雄船渡→木津→熊見川→浜市→野中→山崎の山下桝→加里屋→塩屋→戸嶋新田
戸嶋新田新田地区内の経路
日吉神社前→居村→五軒家前→十五軒家前→七軒家前→大津川堤防下→塩屋川水門 又は→天和

今に受け継がれる用水の定め
新田分一  六時より 十四時まで 週の内三日
  居村地区  一月・水・金曜日
  五軒家以西一火・木・土・日曜日
塩屋分一 十四時より二十二時まで 週の内二日
加星屋一二十二時より翌日六時まで 週の内二日

延々と続く樋、瓦製・木製・土製・忌部焼きの樋!!
配水樋と給水樋(瓦管)
参考資料
八木哲浩監修『赤穂市史第二巻』(赤穂市)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣)
岡田順一『新田の歴史一先人の遺産』
赤穂民俗研究会『赤穂の民俗その六一塩屋編』(赤穂市教育委員会)
廣山尭道編『赤穂塩業史』(赤穂市役所)
松岡秀夫編『ふるさとの思い出写真集一赤穂』(国書刊行会)
赤穂市立歴史博物館編『常設展示図録』(赤穂市立歴史博物館)

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