| 感状山物語 |
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| 感状山 |
| 山深い相生市矢野町森の山頂に、赤松円心の三男則祐の築いた山城があった。鎌倉時代には瓜生城と呼んでいたが、建武三年新田義貞が足利尊氏を討つために白旗城を攻めたとき則祐は、この城にたてこもって奮戦し、新田の大軍を悩ましたので、尊氏から功を賞され、感状を与えられた。 このことから山の名を感状山、城の名も感状山城と呼ばれるようになった。その後赤松政資の時にも、応仁元年の小田恒合戦や粟賀合戦に、養子の政村と共に出陣したといわれ、近隣に武功をならしていた。 しかし天正年間の秀吉の播州攻めには、武運つたなく敗れて城は落ちてしまった。 これにまつわるいくつかの落城哀話が今も村人に語り伝えられている。 落城のとき、城に美しい姫がいたが押し寄せる大軍に逃げまどった一人は死の道連れに日頃かわいがっていた金の鶏を抱いて、城内の井戸に身を投げあわれな最後をとげた。それ以来この井戸から元旦の朝鶏の鳴き声がするという。現在は、その井戸は埋まってしまっている。 もう一人は運よく攻め手から逃れて、山下の藤堂で親切な里の人にかくまわれて暮した。藤堂の部落には、その後たくさんの美人が生まれるようになったのは、姫の霊の礼心ではないかともいわれている。 |