兵乱━豊臣秀吉の朝鮮出兵と水夫の徴発
兵乱の変った形として、「赤穂郡誌」明治40年刊によると、豊臣秀吉が征韓の戦いに水夫の徴発を那波浦で行なうということになったため住民が四散してしまい、那波千軒が16戸になってしまったとある。 また、兵乱の備えに対して人夫の徴発などはすぺて赤松家が行なったと教王護国寺文書にも記録されている。