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感状山城・大島城・光明山城の落城
 光明山古城西の丸の眺め
 大島城のあった「大島」
 建武3年5月19日の大島城落城に関する記載のある海老名古文書(那波政良氏蔵)
 次いで建武3年(1336)、足利尊氏討伐のため新田義貞が播磨国の鵤庄に出陣し、足利軍に組する赤松則祐勢の出城である感状山城を攻略。またこのとき大島城、光明山城も同時に落城したと太平記に書かれている。 
 また、大島城の落城については、海老名文書では建武3年(1336)5月19日に攻められ、海老名景知は白旗城に馳せ参じていたために、あえなく新田義貞の軍勢に落城させられ、その妻子は相生村の下屋敷に難を避けたということや、この義貞軍の侵攻のとき、景知は数々の武勲をたてたということの記録もこの文書に残っている。
 次いで、応仁元年(1467)、再び戦いの気運が播磨国にも充満し赤松政則の命を受けた赤松政秀が、旧臣を集めて一斉に蜂起、播磨一帯を奪回したといわれている。

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