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矢野の荘U
東寺百合文書
東寺百合文書
 文治2年(1186)に、播磨三代目の海老名馬次郎盛重が、相生(現相生館付近)に下屋敷を造り、その一帯に相生(おお)の村名を付けたが、当時は戸数70戸内外の漁村で、漁船の停泊地として知られた。
 鎌倉時代の末期まで、地頭的領主として発展をみせていた土豪として勢力のあった寺田氏が悪党化して、東寺方に一応抑えられた後でも続いて例名の公文職(庄国領主への年貢諸役を沙汰する義務)、重藤、16名の押領や侵略を長期にわたって繰返していたし、海老名氏も南北朝時代全期を通じて那波、佐方の領家職をはじめ、別名の那波浦、西奥村や例名の公田方、別名の下司職などの侵略を繰返し行なっている。
 これらの土豪の動きに対して、守護赤松氏は、はじめの頃は傍観的であったが、南北朝中頃幕府の度重なる下知によって、志水左衛門尉へ粟生田又次郎などが海老名七沢等の押領を停止せしめている。一方、東寺は領主.代沙汰人・百姓たちに悪党を退治して庄家を警護するようにと下知し、また、守護側勢力の懐柔を図るために「守護一献料」を献じさせるとともに城を築いて防備につとめさせている。
 この頃、守護赤松氏一族の中津川律師が飽間九郎や吉川孫太郎らとともに例名の重藤名を押領したり、守護の御家人である小河顕長らに例名を押領させたりして、守護赤松氏の支配権の拡大を図っていった。
 このように、庄園領主と守護、土豪側の二重支配をうけて働く農民たちの生活は、農耕による生産は時代の進歩にともないかなり増加をしていたものの、少しも生活は楽にはならなかったといえる。
 というのは、庄園領主が収取した年貢課役には、名田の分米はもちろんのこと、名畠の分麦・分大豆・分そばや・北山地子銭・麻生・粟などがあり、その上、中央への使役、雑役などの賦課役があったし、守護や土豪側からは、兵糧米・守護役・反銭などの収取が行なわれたため、とくに弱小農民は耕地を失ない、小作人に転落するなど貧富の差が著しくなってきた。

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