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下剋上の時代
 一方、この生活苦の因となる搾取と戦うために農民たちは、村落の結合をはかり、強訴・逃散などの反抗運動を展開するようになった。
 その一例として、応永35年(1428)の播磨国土民蜂起は、非常に有名である。
 このように階級分化が漸く顕著になった室町時代、守護赤松氏も東寺をはじめとする諸大寺の勢力も衰微した頃、中央における蓮如上人やそれ以後の本願寺の熱心な伝導は、打ち続く社会不安に悩む人々の心をしっかりととらえ、急速に播磨一円に伸展し、相生市内に於いても数多くの真宗寺院が建立され、他宗からの改宗も多くみられたのもこの頃のことである。
 相生市に於いては、明応5年(1496)、相生の光明寺が釈道誓によって建立された時代と同じ年代に当たる。
 この時代を世にいう「下剋上」とか「戦国の世」とかいわれる時代であって、相生市における当時代の領主も、嘉吉の乱(1441)を境として領主の入れ変りを多くみながら、次の時代に移っていった。
 嘉吉元年(1441)に赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、白旗城にこもったが、その後、宝徳2年(1450)に山名持豊が赤松満祐を亡ぼし、かわって播磨を領有したが、非常に有名な応仁の乱(1467〜1477)が起こり、赤松政則が東軍の細川方に味方して、山名政豊を攻め落し、旧領地であった播磨・備前・美作を自分の領地にもどしたが赤松義村のとき、家臣の浦上村宗が叛逆し、義村は、室津で殺された。がしかし、享禄4年(1531)、義村の子である赤松晴政が、浦上一派を滅亡させ、ようやく播磨の守護職をとりもどした。
 けれど高尾に出城を持っていた尼子晴政が天文7年(1538)に領内に乱入したため赤松氏は西播一円の支配から追われることになった。

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