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戦国時代の末期
海老名季次二十代が農民になったことを記載している海老名家系図
 天正5年(1577)の頃、赤松氏の旧領地を陪臣の宇喜多直家が領有していたが、豊臣秀吉のために滅亡させられ、9年後の天正14年(1587)頃、織田信長の武将であった生駒親正が領主となり、播磨赤穂6万石を統治したといわれている。
 しかし翌年には、この生駒氏移封となり、その後、宇喜多秀家がその領地を支配することとなり、家臣の津浪法師に政務をまかせていたが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ケ原の戦いで宇喜多氏は没落し、,姫路城主、池田輝政の支配を受けるようになり、その家臣の垂水半左衛門勝重が五百石をもって赤穂郡代として派遣されてより、代々池田家が赤穂郡を統治することになった。
 元和元年(1615)、池田河内守忠継が卒し、嫡子が幼少のため、輝政の家臣、池田出羽守由之が二万石をもって政務を司ったが、城地改変の沙汰によって輝政の五男である松平政綱がこれにかわって領主となり当地を支配するようになった。
 同年11月、江戸将軍徳川家2代の秀忠の農民の身分固定化や兵農分離の政策によって、代々播磨国の領主として栄えてきた名門海老名家が二十代、海老名季次(海老名与兵衛)のとき以来、農民となってしまうのである。

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