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藩政当時の相生
 浅野長直像(花岳寺蔵)
 近世における相生(資料の都合により那波5ヵ村)についての藩政を羅列してみると、近世における相生(那波5ヵ村)とは、すなわち旧市域に含まれる那波浦・陸村・池之内村・佐方村・相生浦をいう。
  正保2年(1845)池田氏の後を継ぎ常州笠間より移った浅野長直が赤穂郡(5万3千石)一円を支配することになり、那波5力村は勿論この支配にはいった。 
 二代長友の時(1671)若狭野11力村(3千石)は彼の弟長恒が分領支配した。
 三代長矩に至って元禄の変があり、浅野家は断絶、竜野城主脇坂淡路守安照が一時預かりの後、元禄15年(1702)野州烏山城主永井直敬が当郡へ転封になった。 
 宝永3年(1706)備中江原城主森長直が当郡へ転封になり郡内二万石を領有した。
 これより幕末にかけて郡内の領有は複雑化し、赤穂藩・尼崎藩・幕府領・安志藩・広島藩浅野領等交錯分領されたが、那波5ヵ村は引き続いて赤穂藩主の支配するところであった。 
 貞享5年(1688)の「村高並納物諸色書」により先づ人口・戸数から眺めてみよう。 
 今日4万2021人の人口、1万1320世帯をかかえるこの地方も、当時は人口総計は2271人、家数合計は、333戸であった。(矢野・若狭野・那波野地区を除く)  
 5ヵ村個々の村々に目を転ずると、相生村の人口・戸数が他の村々よりも断然多く、他の4ヵ村の合計を上まわる大村であったことがわかり、那波村がそれに次ぐ。

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