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藩政当時の相生━農業
 五人組帳(宇野氏蔵)
 また農業については、田畝合計78町4反2畝16歩、畑畝合計40町7反1畝18歩の耕地を牛86頭、馬2頭を使役して経営していたようである。溜池22カ所、細流苧谷川らのほかは池がかりであることもこの地方の特色の一つである。
 麦まき田21町5反29歩の村で、一毛作の湿田が全体の65%を占めていた。
 今これを各村別に見ると、田畝面積は那波浦が27町で一番多く全体の34.4%を占めている。ついで陸村(24.1%)佐方・池之内・相生浦の順で相生浦が全体の12%にも足りない。
 畑の面積は、相生浦が約12町で(27%)一番多く、那波(25.7%)・陸・佐方・池之内の順で、池之内はわずか8%にすぎない。
 農業生産と最も関係の深い年貢についてみると、当時の農民にとっての務めは、いうまでもなく滞りなく年貢を納めることであった。
 そしてその税率は、「四公六民」とか「五公五民」とかいわれているが、赤穂藩の場合はどのようであったか。
 今日われわれの年間米の消費量1人約1石必要だということを考えて資料を眺めてみたい。
 当時の農民1人当りの生産高から年貢(平均5割9分)を納めてしまうと1年間の半ばも米を食えず汗水たらして支配者のために米をつくり自からは、麦や雑穀で生命を維持しなければならなかった封建制度下のみじめさがよくわかる。
 更に五人組制度によってお互いを監視しあうといった制約もあった。
 この五人組制度の起源は遠く王朝五保にある。 慶長3年(1598)の制度に「辻切盗賊の儀に付て諸奉行人・侍は五人組、下人は十人組連判のしるし、右悪逆不可為の旨請合申事」とある。
 江戸時代には、各地に普及して、浪人取締まり切支丹の禁制の徹底に効果をあらわした。これは領主、地頭に厄介をかけずに村人に責任をもたせ、地方自治体の治安維持を保たしめたのも江戸時代の農民に対する行政の特色の一つともいえる。

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