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学校教育━寺小屋
栗原良平先生頌徳碑
 庶民教育としての寺小屋は、商業的資本の蓄積によって実力をもってきた町人の勢力の台頭とともに発達をとげた。このような推移から、やがては農村のいたるところに普及するようになり、天保の最盛期(1830〜1843)には、全国でその数一万五千以上あったといわれている。
 相生市においても幕末には、寺小屋の数が10近くになり、庶民の普通教育機関としての発達は、目をみはるものがあった。
 寺小屋では、教師を「手習師匠」といい、「お師匠様」と呼んでいた。
 生徒は「寺子」または「筆子」と呼び、就学は7、8才から12、3才までの子供で男女共学であった。
 教材は習字が主体で読書を副体とした寺小屋が多く、それに算術を加えたところもあった。授業時間は、毎日午前8時頃から午後3時頃までで、朔日(ついたち)・15日・25日・五節句・祭日は休日であった。教授の方法は、教師は高座に位置して、生徒一人或は数人ずつその前にすわって教えを受ける個別式であった。わずかの教材を反復練習させ「読書百遍自ら通ずる」という主義で暗記させていた。また「斉読」といって、師の一語一語をまねて寺子一同大声で読んでいた。
 習字は、手本を書いて与えることが師匠の第一の任務で、寺子の手をとり筆法を教えあとは草紙に随意に練習していた。
 寺小屋の師匠は、少なくとも文字のわかる者が、里人の懇請によって師匠となった場合が多かった。したがってその社会的地位は比較的高く、精神的には衆民尊敬の集まるところとなっていた。師弟間の情誼の厚さは、成人の後もながく音問を絶たない尊師の美風と、寺子の成人後まで面倒をみる師の人徳によって結ばれ、庶民教育における訓育徳紀の効果は偉大なものであった。
 今日、市内の各地に残されている寺小屋師匠の寿碑や、歿後における「何々先生の墓」の頌徳碑は、その旧門下によって建てられたもので、その徳化の偉大さを物語っている。

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