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小学校の開設
 学制発布の年(明治5年8月)この地域は飾磨県に属していた。また当時の村は、市町村制実施以前の小さな村であった。江戸時代からそのままの小さな村々は、新政府の学制実施の督励を受けて、民家や寺院をこれにあて、先生をやとって新しい学校の看板をあげた。
 「第三大学区飾磨県管内第30番中学区赤穂郡第58番小学海臨学校」これは相生村に新たに設けられた学校の名称であった。池之内村に55番小学慶雲学校、陸村に56番小学遂終学校、那波村に60番小学要道学校、佐方村に61番小学行素学校、若狭野村に行業学校、小河村と上土井村は組んで百二番小学三省学校、下田村、真広村、二木村と組んで百一番日進学校、瓜生村、上村、菅谷村が組んで百番小学篤信学校、中野村、森村、金坂村、榊村、能下村の6力村が組んで文明学校が創立された。
 明治7年になると、矢野地区南部8力村は、三省、日進。篤信の各学校を廃して真広村に矢谿小学校を設立し、矢野地区北部6力村も文明学校を榊村に移転して才元小学校と改称した。若狭野地区12カ村は野々村字亀之元に博修小学校を設立した。
 明治8年には、那波村と佐方村と組んで那波小学校を設立、陸村、池之内村は陸池小学校を設立、明治9年には、那波、陸池の両学校を廃して4力村で那波小学校を設立し、千尋、壺根もこれに加わっている。
 年々学校が統廃合され、明治9年になってようやく現在の各小学校の沿革となった。

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