home back next

初期小学校の制度と就学状況
 学制によって定められた初期小学校は、上等小学校4年、下等小学校4年の計8年制になっていた。更に、1年を2期に分けて上等下等各8級から1級に分けられ、半年毎に試験をしてそれぞれの合格したものを進級させていた。
 明治13年、高等小学校2年、中学3年、初等科3年とし初等科3年を義務制にした。
 このような制度のもとに教育行政はすすめられてきたが、就学状況は悪く、寺小屋時代から近代学校教育時代へと一足とびには進まず規則どおりには行われなかった。
 相生小学校の沿革誌によれば、明治18年にはじめて卒業生を出している。また明治11年の県下の就学率は37%にすぎなかった。
◇就学状況の悪かった理由や卒業生の少なかった理由
・一般の人たちが教育の必要を自覚しなかった。特に女子教育は無用と考えた。
・生活が貧困、子どもも働かせた。・家事の都合で簡単に欠席させた。
・字(いろは)が読めるようになると就学の目的を達したものと考えていた。
・学校の学習がむずかしく試験に合格しにくかった。
 こうした悪い就学状況で、就学督促は教育関係者の苦慮するところであり、特に学務委員(明治12年教育令以後)の重要な任務であった。
 明治19年、小学校令の公布により、尋常(4ヵ年)高等(4ヵ年)の2等科に改められ、またこれとは別に簡易科(3ヵ年)を設置することになった。
 この簡易科は、授業料免除の小学校で、この点では親の教育費負担は軽くてすんだが、尋常科の生徒にくらべて学科の数が少なく、一日の授業時間も少なく(一日3時間授業)従って高等科へ入学する資格が与えられなかった。相生小学校、那波小学校はこれを不満として尋常科の併設を願い出て、明治20年、県令を以って相生村はその併設が許され、続いて翌年那波村も認可された。
 明治24年、簡易小学校が廃止されすべて尋常小学校となった。
赤穂郡第六番学区那波簡易小学校
赤穂郡第七番学区相生簡易小学校
赤穂郡第八番学区八洞簡易小学校
赤穂郡第九番学区真広簡易小学校
赤穂郡第九番学区榊 簡易小学校

home back next