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水守亀之助
「帰れる父」刊行の広告
創作集「通り魔」初版(田中脩治氏蔵)
亀之助肖像(「文章世界」大正9年1月号)
「文章世界」大正9年4月号の予告
 相生の生んだ文学者の中で、中央文壇で活躍した唯一の作家である。
 亀之助は明治19年(1886)、若狭野町下土井に生まれた。数年間、大阪で医学を学んだが、文学への志やみがたく、20才のころ上京、雑誌記者等をしながら文学修業に入った。
 当時、文学界は、自然主義文学のらん熟期で、亀之助も田山花袋・徳田秋声らの教をうけて、自然主義の系列に入り、大正8年「文章世界」に発表した処女創作集「帰れる父」が出世作となって、一躍文壇にデビューした。その登場ぶりはまことに鮮烈かつ華麗であって、以後各文芸誌に続々と作品を発表し、新聞にも連載小説を書いて文壇の流行児となった。たとえば大正9年9月には、「早稲田文学」に創作『親子』、「新潮」に『犠牲』、「太陽」に『婚約』、「改造」に『罪』と四篇もの作品が見られるくらいである。
 しかし、すでに峠を登りつめていた自然主義文学思潮はやがて行きづまって、プロレタリア文学や各種のモダニズム文学にその主流を譲るに至って、亀之助も漸次創作活動から遠ざかって文化運動や出版活動にうつっていった。第二次大戦後も朝日新聞社から「わが文壇紀行」(正続2冊)を出したが、昭和33年12月、不遇の晩年をとじた。
 自然主義作家群の中でも、もっとも自然主義の常道を行く作風で、日常的な平凡な事実の中の明るさや暗さを、すべて肯定的に淡々と描いて、一見きわめてじみであるが、しかし気骨のしっかりした作品である。

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