半田鶏肋(けいろく)と岩木躑躅(つつじ) |
半田鶏肋墓碑の句 |
躑躅の句(「鶏肋句集」所載) |
急ピッチで進められる相生駅北の開発ーその中で、ここだけが静かにたたずむ陸の墓地、その片すみに半田鶏肋の墓がある。 半田鶏肋(本名伍郎)は明治30年、若狭野村野々射延家に生まれ、のち那波村陸半田家へ養子に入った。那波小学校に勤務しながら神戸の俳人岩木躑躅(つつじ)に俳句を学び高浜虚子編「俳句歳時記」に「藷蔓(いもつる)を被り負ひたる農婦かな』の句が採られているくらいで、将来を期待されていたが、昭和3年の初夏、31才の若さで逝った。 彼の句は視覚的な、造形のしっかりした句が多く、どことなく浪曼的な雰囲気を漂わせている。 先へ行く人に日照りぬ枯野道 蹲る眼に跳ぶ色や赤蛙 絵馬堂に埃沈まぬ日永かな 緋桜の橋より続く日傘かな 山吹に傘押しあてて渡りけり 大門を開け放ちある遅日かな 畦に火を放ち畑打つ男かな 墓碑の裏に刻まれた「日洽(あまね)き書斎うれしや福寿草」の句は、彼の最晩年の詠であって、闘病の中から静かに人生を凝視する人の、法悦のようなものが感じられて胸をうつ。 鶏肋の師岩木躑躅は、鶏肋没年の秋、愛弟子の法要にこの地を訪ねた。そしてその墓前で「故人日々遠く鶏頭赤きかな」と詠んだ。鶏頭の花の毒々しいまでに激しい花容が、その追憶の心のはげしさを語る。文芸の道につながる師弟の美しい交情である。 |