home back next

福田眉仙
福田眉仙
作品(光専寺蔵)
作品(矢野小学校蔵)
 明治8年、矢野町瓜生に生まれる。幼少のころから絵がたくみで、森の光専寺に13才ごろの絵が残されているが、すでにその画才は著しい。のち、京都の久保田米遷、ついで東京美術学校で橋本雅邦に画技を学ぶ。とくにその校長岡倉天心には人格的に深い影響をうけ、後年の眉仙の芸術上、人生観上のバックボーンは、このころに形成されたと思われる。
 やがて天心・雅邦が日本美術院を創設すると、横山大観・下村観山・菱田春草……といった、後年の大家たちとともに率先してこれに参加し、その中核となった。
 しかし、間もなく、自己独自の画境を求めて、六甲山麓苦楽園に隠棲して、静かに、しかし熱心な画業生活に入り、最後までそこに住んだ。
 眉仙の画風は、師岡倉天心から「日本美術院の中で、その性格・筆致が南画に適しているのは君ひとりだから、衰退している南画を君の手で復興してもらいたい…」と激励されたということでもわかるように、南画(文人画)を基調とするものであるが、その長い刻苦精励のうちにいろいろな画風を自家薬籠中のものとして、画題・画意によってもっともふさわしい画風を駆使した。その意味で「新南画風」とでもいうべき眉仙独自の画境を拓いて、日本美術史に独自の足跡をとどめている。
 その眉仙の画境の根底を支えるものは写実主義である。明治41年、日露役後の中国大陸を、約四年にわたってスケッチ旅行をしたが、これは師天心から托された南画復興の悲願とともに、眉仙のリアリズムにもとづくものであったろう。それにしても交通不便のその当時、包頭・大同・西安・成都から西域に及ぶ二万支里の大行脚である。眉仙の、画業へのなみなみならぬ執念がうかがえるのである。
 清廉・無欲、そして画業一途の硬骨の人であった眉仙は、世間的な栄誉や、名声を求めず、ひたすら自らの画業に精進して、昭和38年10月、89歳の高令をもって逝った。画ひとすじの幸せな生涯というべきであったろう。

home back next