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仏閣
 仏教の伝来は、欽明天皇13年(552)百済王の仏像、経典を天皇に献じたのがはじめで、当時、蘇我・物部二氏の仏教信仰可否の争いは有名である。蘇我氏は仏像を天皇から賜り拝したのであるが、蘇我氏が勝利をおさめると、仏教は公認となり、聖徳太子のご信仰とともに、法隆寺・四天王寺の建立、ひいては、播磨の鶴林寺、鵤の斑鳩寺の建立をみ、仏教は各地に弘通するようになった。
山岳仏教
 この頃、高麗(こうらい)の僧恵便・恵聰が、物部氏におわれて、矢野庄瓜生の岩窟にかくれていたが、後生衆生済度のために石仏を刻んだといわれている。
 古来日本人は、山岳の威容をながめては、そこに神性をみとめ、山岳に対する宗教心をもったのである。
 役小角(六三四)は、大和南葛城郡の住人で、役行者または役優婆塞(えんのうばそく)と呼ばれた。この人は得度した僧でなく、わずかに十善戒を保つ程度で大和の大峰山を中心に呪禁(じゅごん)の行をした人である。彼は白鳳より天平年間にかけて活躍し、修験者の祖師として全国至る所の山林、岩窟の中にその伝説をもっている。
 相生市においても、矢野上村薬師堂、小河山観音寺は、役小角が開始したとの縁起である。又、その系統をつぐ行者が、矢野、榊字黒蔵の黒戸山観音寺を建てている。そのほか、蔵王権現をまつる榊の氏神、金峰神社も修験者と関係があると思われる。

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