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その他、市内の諸仏堂
 末法思想の地方に浸潤するにつれて、上記阿弥陀堂の外に、矢野町榊字門野の昆沙門天堂、矢野町真広の薬師堂、上村薬師堂、釜出観音堂、中野薬師堂、金坂薬師堂、小河薬師堂、下田薬師堂、中野徳力阿弥陀堂、若狭野薬師堂、野々薬師堂、佐方観音堂、佐方薬師堂、那波野大日堂など数多くのものが建てられている。
 鎌倉から室町時代にかけて、遊行僧としての高野聖、六十六部回国聖、修験者などの往来も盛んで、これらの諸堂を中心に、郷村伝道が行われたと考えられるのである。
 時宗は一遍上人智真によって開宗され、鎌倉時代の新仏教の一つで、彼の門下は主として西国を中心に遊行を重ね、熱狂的な浄土信仰を植えつけたのである。かの峯相記にも、湛阿が播磨の教信寺において、元享3年(1323)に数百人の群集を集めて野口の大念仏をはじめ、当時踊る念仏と称して鉦叩に合わせて、念仏や和讃をうたい、民衆の中にとけこんでいった。
 矢野庄においても、貞和元年(1345)の族注帖に、重藤名の名主に善阿という名がみえ、応永10年(1403)の記録に、庄内の六条道場派の僧に、名主職が与えられており、応永22年には、東寺が庄内において、時宗道場の建立を黙認する事態が生じている。
 このように矢野庄においても時宗勢力の伸張をみるようになり、前に述べた諸仏堂の農民共有化と共に、真宗道場成立の地盤となったのである。

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