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真宗の伝播
蓮如真筆である(西法寺蔵)
 真宗は、1467年の応仁の乱を契機に、大変盛んになり、たちまち一大宗門の地位をしめた。他力本願の平易な教えとともに、庄園の崩壊にともなう古代権力による宗教統制が挫折して、新たにおこった名主層の支配と、郷村の新しい自治的、惣的統合の時流にうまくのったのである。
 真宗は、一向専修の念仏をすすめるので、「一向宗」と呼び、本願寺八代蓮如は、積極的に弘教をはかり、播磨においても嘉吉の乱後、下間空善を西下させて、その子実如の時、英賀城主、三木氏の帰依をえて英賀御堂をたて、実如の子実円を住持にむかえ、その門弟が各地に分散して弘教に努めたため、播磨一円はほとんど真宗門徒となってしまった。
 この頃は、まだ寺号をつけず、篤信者の家を「道場」とし、六字名号あるいは、画像を安置して集まりの場とした。末寺が寺号をもち、本尊を安置したのは江戸時代からで、その創建とは関係がない。
 今日のように、部落や、字ごとに寺院ができるようになったのは、中世末期から近世にかけて、村落にあった小堂や小庵に遊行聖が定着したり、村落内の中・小名主が道場の主となって、発展したのであるが、相生市内の各寺院の開基をみると、赤松氏の一族に関係したものが多いのが特色である。
 赤松義村の孫、小林貞治郎義光が蓮如上人に帰依し森感状山下に道場を開基した。光専寺をはじめ榊西教寺、下田明専寺、寺田善行寺、上松円立寺、那波得乗寺、那波野西法寺がそれである。

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