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1600(慶長5)年9月16日発行(第004号)

忠臣蔵新聞

五奉行・五大老は
関ヶ原でどうしたか

浅野幸長さんは毛利一族の押さえとして重要な役割
五奉行で家康さん側についてのは唯一浅野家のみ、その理由は?
石田三成さんとことごとく対立し、秀吉さんとも朝鮮出兵で対立

関ヶ原合戦の図(右上の浅野幸長さんは毛利一族の押さえ
五奉行
浅野長政さん、東軍へ
前田玄以さん、西軍へ(1602年没)
増田長盛さん、西軍へ(1615年大坂の陣で子供が大坂方ということで、攻められて自決)
長束正家さん、西軍へ(敗戦後自決)
石田三成さん、西軍大将へ(敗戦後処刑)
五大老
小早川隆景さん、1597年没
前田利家さん、1599年没
毛利輝元さん、この時大坂城にいたということで、周防・長門に減封
徳川家康さん、東軍の大将へ(勝利後1603年征夷大将軍へ)
上杉景勝さん、敗戦後家康に臣従(120万石から30万石へ減封)
宇喜多秀家さん、西軍へ(敗戦後八丈島へ流罪)
どうして五奉行では長政さんだけが徳川方についたのか
石田三成さん 浅野長政さん

『異本落穂集』の作者本道寺友山さんは次のように話してくれました。
 1590年の小田原攻めのとき、駿府城の徳川家康さんが浅野長政さんに「駿府は私の居城なので、
ご家来衆までの料理を用意しておきます」と伝えました。この話を聞いて豊臣秀吉さんは駿府に着き
ましたが、石田三成さんは「家康公は北条氏政と気脈を通じているとのこと、そのようなお城に入るの
は危険です。お止め下さい」と進言しました。秀吉さんが躊躇していると、長政さんが「そんなことを信
じてはなりません」と諌めましたので、秀吉さんは安心して駿府城に入城しました。何事もなかったこ
とは言うまでもありません。

『常山紀談』の作者は、次のように語っています。
 1592年の文禄の役のとき、豊臣秀吉さんが朝鮮へ渡航すると聞いて、浅野長政さんは「古狐に取
り付かれたか」と批判しました。これを聞いた秀吉さんは「わけを言え。場合によっては、手打ちにす
るぞ」とカンカンに怒りました。長政さんは「私の白髪首などいくらでも差し上げます。今、日本全国が
困まっています。この上渡航されたら、五畿七道には盗賊がほびこります」と諌めました。このようなこ
とから、徳川家康さんに接近したのかも知れません。

 石田三成さん(歳)が、策を弄して家康さんと長政さんとの仲を裂こうとしたことがありました。それに
不安を感じた長政さんは身の潔白を証明するために、家督を嫡子幸長さんに譲ったというようなこと
もありました。

 その他、家康の手紙戦略・謀略、つまり情報戦をあげる人もいます。
 例えば、1599年9月の家康暗殺計画を利用して、家康さんは浅野長政さんを甲斐に蟄居させたこ
とにして、他の五奉行との隔離作戦に成功したり、1600年8月には家康さんの手紙作戦ではこの8
月だけで、長政さん・幸長さん宛てにおくった手紙が9通残っています。

お答えします。
 それは三成さんとの対立と、家康さんとの友好

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