1600(慶長5)年9月16日発行(第005号)
ドキュメント関ヶ原の戦い
前田利長さん |
1597年 | 小早川隆景さん(65歳)が死去しました。 |
1599年3月 | 秀吉さんの死後、家康さんと唯一対抗できる前田利家さん死去しました。 これにより、文治派の石田三成さんと武断派(加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・ 池田輝政・浅野幸長さんら)の対立が本格化しました。 家康さんはこの間着々と政略結婚を進める(正則さんの子正之さんに家康さんの異父弟 松平康元さんの娘を養女として結婚させ、加藤清正さんの子忠広さんには従弟水野忠種 さんの娘を養女として結婚させています)。 |
9月7日 | 家康さんが大坂に入りました。 |
9月9日 | 家康暗殺計画が露見しました(前田利家さんの子利長さん、浅野長政さんらが大坂城に 登城途中の家康さんを暗殺しようという計画です)。有力な豊臣方の大名を把握するため の家康さんの謀略という説もあります。 |
9月28日 | 暗殺計画を利用して、家康さんが大坂城に入りました。 |
10月2日 | 家康さんは、暗殺計画の処分を発表しました(浅野長政さんは、甲斐に蟄居することを 命じられました)。これにより、五奉行の筆頭浅野長政さんを関東に封じ込めることに成功 しました。 |
1600年7月24日 | 家康さんは「三成挙兵の確報」を得ました。 |
7月25日 | 下野小山で軍議を開きました。正則さんは「妻子を捨ててもお味方つかまつる」と発言し、 武断派(浅野幸長さんら)もこれに賛同しました。 |
8月 | 家康さんの手紙作戦(この8月だけで、浅野長政さんに2通・幸長さんに5通の指示・承認 の手紙、幸長さんに2通の連名の手紙) |
8月11日 | 三成さんが大垣城に入りました。 |
8月21日 | 浅野幸長さんら木曽川の上流から渡河して、岐阜城を攻略する作戦に参加しました。 |
8月24日 | 幸長さんら岐阜城を落とす。これにより三成さんの大垣〜岐阜城が防禦ラインという作戦 が崩されたことになります。 |
9月14日12時 | 家康さん、幸長さん、井伊直正さんらが岡山に布陣しました。 家康さんは「一気に左和山城を抜いて大坂城を攻める」という偽情報を三成方に故意に 流しました。 |
9月14日19時 | 三成さんは大垣城を出て関ヶ原へ退陣しました。 |
9月15日2時 | 福島正則さんらが関ヶ原へ追走を始めました。 |
8時 | 南宮山方面の毛利一族への押さえとして、山内一豊さんの2056人、浅野幸長さんの 6510人、池田輝政さんの4560人を配置しました。 |
11時 | 松尾山の小早川秀秋さんが大谷隊と合流し、南宮山の毛利隊が東軍の側背(浅野幸 長さんら)を突けば、西軍は勝利することが決定的な状況でした。しかし、秀秋さんは寝 返り、毛利隊が動かなかったことにより、東軍は逆転勝利をおさめました。西軍の中心 毛利氏は、動かないことで毛利家を守るという苦渋の選択をしたのでした。 |