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1614(慶長16)年〜1615(慶長18)年発行(第009号)
忠臣蔵新聞

ドキュメント大坂の役(1)

大坂の役の背景と冬の陣

京都方広寺の釣り鐘 国家安康君臣豊楽と読める
左中央のに浅野長晟の名が見える
冬の陣
1614年5月  豊臣家が建立した方広寺の鐘に刻まれた銘文(国家安康君臣豊楽)を口実に、家康
さんは豊臣方に戦いをしかけました(方広寺鐘銘事件)。
10月6日頃  細川忠興・浅野長晟さんらは家康方につくことを誓いました。
10月19日  家康さんは「本多正純・浅野長重ほか中国・四国の諸将に檄を飛ばせ」と指示をだし
ました。
11月6日  家康さんは浅野長晟さんに「住吉に行け」と指示しました。
11月18日  図のような包囲網が完成しました。
11月19日  浅野長晟さんら7000人は、物資搬入ルートの砦(木津川と尻無川の合流する河口)
を攻略しました。
11月25日  藤堂高虎・浅野長晟さんに宛てた内応の手紙を持った間者が捕まりましたが、家康さ
んはすぐこれを偽物と見破りました。
11月27日  家康さんは「浅野長晟内応」の噂を聞いて、長晟さんの陣の後ろに伊達正宗さんの陣
を移させましたる。これは大坂方の大野治房さんの謀略と言われています。
12月17日  塙団右衛門さんが夜討で中村重勝陣を襲い、数十人を殺しました。
12月18日  徳川方の大砲攻めにより、大坂方は講和に応じました。
12月19日  「大坂城は本城だけ残し、ほかは破壊して平地にする」という条件で和議が成立しまし
た。
12月25日  家康さんは、大坂城の総堀りの埋め立てを見て、大坂をはなれました。
出典
第一学習社『総合日本史図表』(その他はメニューに記載)

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