1614(慶長16)年〜1615(慶長18)年発行(第010号)
ドキュメント大坂の役(2)
左下に浅野長晟の名が見える |
大坂城終に玉造口より破れて寄手の惣軍乱入す(黒地に白餅が浅野長重隊) |
下から二段目中央に浅野長重さんの名が見える |
夏の陣(1615年) | |
4月21日 | 家康さんは、秀頼さんの大和への移封を命じました。 |
4月28日 | 塙団右衛門さんは3000人を率いて、大坂城を出発し、南海道紀州路へと南進しました。 これは和歌山から北進する浅野長晟さんを叩くためです。長晟さんは大坂城で秀吉さん に仕えた身でありながら、秀頼さんから度々の要請を断って、徳川方につき、大坂方の憎し みを一身に背負っていたからです。五奉行は浅野家以外すべて大坂方についていました から、よけいです。 |
4月29日 | しかし塙団右衛門さんは対浅野の先陣を自任してしていたのに、岡部大学さんが先行し ているという情報を聞き逆上してしまいました。団右衛門さんは和泉樫井(かしい)村で長 晟さんの率いる5000人と遭遇しました。そして長晟さんの弓の名手多胡さんに体を射ぬ かれ、槍の浅野さんに突かれて戦死してしまいました。この位置では長晟さんが勝利をし て、家康さんを喜ばせました。 |
5月7日 | いよいよ決戦の日となりました。大坂城の玉造口より本多忠政・松平忠直・浅野長重(長 政さん三男坊で長晟さんの弟)さんらが大坂城に突入しました。 真田幸村さんは意地で家康さんの本陣に突っ込み、家康さんも「もはや逃れがたい。こ こで 腹を切る」と二度まで言わせましたが、長重さんらがこの場をよくしのぎました。 |
同午後4時 | 大坂城は落城し、その燃え上がる炎は夜半まで消えることはありませんでした。 |
5月8日 | 淀君さん、大野治長さんら20人と自害する。 |
出典 第一学習社『総合日本史図表』(その他はメニューに記載) |