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1652年発行(第026号)

忠臣蔵新聞

赤穂城築城の財源を求めて
(その2)

長直さん、塩田開発にも取り組む(約130町歩の成果)

入浜式塩田 赤(浅野時代)、黄(森時代)、他(それ以前)
(『赤穂市史第二巻』所収)
長直さん、塩田開発にも取り組む
 長直さんがどれほど精力的に塩田を開発したかを調べてみよう。
 御崎新浜村に29町5反9畝9歩、唐船に33町9反4畝20歩
 唐船外に9町1反4畝6歩、塩屋村に28町1畝5歩
 加里屋村では1666(寛文6)年の検地帳に17町4反4畝5歩とある。6町歩余を開発している。
 つまり浅野時代の塩田の開発は
   a.東浜(千種川以東)で約93町歩、b.西浜(千種川以西)で34町歩
   c.合計127町歩余(銀に換算して年に7480匁を得たことになる)
塩で5987石の財源を獲得(27年間で)
企業秘密はマニュファクチュアの育成
赤穂塩、江戸へ進出→吉良塩と衝突
 長直さんは、塩田経営面積の基本単位を1町歩としてこれを1軒前とする。浜男・浜子を賃金労働者として、協業による生産を行わせるという、いわゆる製塩マニュファクチュアを確立したのである。
 孫の浅野長矩さん(例の赤穂事件の主役の一人)の時に、大野九郎兵衛さんが藩札の発行に踏み切りました。
 これにより塩田からの収入を増加させ、また、塩の生産と販売を一手に赤穂藩が握ることになりました。
 同時に、貨幣経済の浸透は、農村・漁村社会の分解を招き没落した地主は浜子として賃銀労働者となり、一層のマニュファクチュウア化が進みました。
 その結果、赤穂塩はどんどん江戸に進出し、吉良塩と競合し、良質の赤穂塩は吉良塩を侵食していきました。赤穂事件の遠因はここらあたりにあるのではないでしょうか。
重大な発表ー吉良領に塩田なし
 吉良町史によると塩田は吉良領になく、隣接する他藩の所有であったという(鈴木悦道氏)。

「赤穂民報」(2007年3月24日付け)
産業スパイ説に重要な反論
根拠が発見される
(写真は「赤穂から連れ帰った女性の墓では」と地元で言い伝えられる墓石=手前=。「裂開妙破信女」の文字は風化して見えにくい=南三陸町教委・鈴木卓也氏提供)
 最近(2007年3月24日)、「赤穂民報」(赤穂市) が次のような記事を掲載しました。許可を得て、紹介します。
 ▼東北の地に今なお残る「赤穂塩」歴史ロマン=東有年の元会社員田中英作さん(69)が「赤穂播州流製塩法を伝えた波路上の塩師達」と題した雑誌のコピーをこのほど本紙に持参してくれた。石川島播磨重工業に勤務していた数年前に宮城県志津川町へ出張した際、町職員が「赤穂に関係があるから」と渡してくれたという。
 江戸時代、製塩技術を盗もうと播州赤穂・新浜村の大頭宅に産業スパイ″として潜入した仙台藩の若者が逃げ帰る途中、関所で捕まった。藩の最高機密を盗んだ科で死罪は免れないと思われたところ、藩のために命を賭けた志に感銘した大石内蔵助が若者を釈放。恋仲に落ちた大頭の娘といっしょに帰郷させたーとの内容。
 もっとも、これは大正時代に書かれた「天道昼行燈」(大倉桃郎作)というフィクションなのだが、「これに近いことがあったのでしょうか」(田中さん)との疑問にこたえようと、取材した。
 本吉郡志津川町は平成17年10月に合併し、現在は南三陸町。町教委文化財保護係の鈴木卓也・技術主査に電話取材したところ、「製塩技術を習得するため志津川から赤穂に出向いたのは史実です」との回答。
 ファクスしてくれた「志津川町誌V 歴史の標」によると、延宝8年(1680)に製鉄技術調査で中国地方を訪ねた本吉郡馬龍村の佐藤三右衛門が帰路たまたま赤穂に立ち寄り、塩作りの様子を目にした。
 本吉郡内では古来から製塩が行われていたが、海水をそのまま釜で煮る原始的な方法で莫大な薪を消費していた。三右衛門は、人手も燃料も効率のよい播州流製塩法を導入しようと3年後の天和3年2月16日、弟の五郎七ら3人で藩の許可を得て仙台を出発。赤穂に5月末まで逗留し、塩煮法を学んだ。
 帰りには浜子2人を2年間の約束で連れ帰った。翌貞享元年にも、再来穂した五郎七らが浜大工を雇い入れている。「赤穂市史第5巻」には、これらの雇用契約を赤穂の大年寄や庄屋が承認した文書(水産庁水産資料館所蔵)の内容が記載さ
れている。
 三石衛門らが営んだ塩田は志津川から約30`の波路上という土地にあった。新製法を導入して2年で借金を返済、その後多くの利潤を上げ、三石衛門は大番士に出世した。そして、赤穂の製塩技法は東北各地に伝播していったという。
 ところで、貞享元年に五郎七と来穂した高橋仲右衛門という人物について地元におもしろい言い伝えが残っている。
 波路上街区の東側丘陵にある高橋家旧墓所に元禄15年に没した女性の墓がある。「裂関妙破信女」の法名で仲右衛門の2〜3歳年上であることから、「墓石の主は仲右衛門が赤穂から関所を越えて連れ帰った恋人では」との説だ。
 仲右衛門が赤穂を訪ねたとき内蔵助は25歳ぐらい。筆頭家老になって5年ほどの若き内蔵助が大岡裁き″で2人の仲を取り持ったのか−。
 明治維新による流通体系の変化で、波路上塩田は明治9年に閉鎖の運命をたどった。しかし、赤穂の塩にまつわるエピソードは300年以上たった今も東北の地に語り継がれている。
参考資料
八木哲浩監修『赤穂市史第二巻』(赤穂市)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣)
岡田順一『新田の歴史一先人の遺産』
赤穂民俗研究会『赤穂の民俗その六一塩屋編』(赤穂市教育委員会)
廣山尭道編『赤穂塩業史』(赤穂市役所)
松岡秀夫編『ふるさとの思い出写真集一赤穂』(国書刊行会)
赤穂市立歴史博物館編『常設展示図録』(赤穂市立歴史博物館)

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