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1667年発行(第027号)

忠臣蔵新聞

浅野長直さんの都市計画

赤穂の城下町(元禄14年頃)
右が千種川、下が瀬戸内海
今の赤穂城(三の丸付近)

詳細図は図をクリックして下さい(赤穂城『赤穂市史第二巻』所収)
27年をかけ、城下町の完成
 長直さんは1645(正保2)年から1671(寛文11)年の27年間で、5万3千石の城下町を完成させました。
赤穂城の本丸、二の丸、三の丸
 『赤穂市史第二巻』により、そのあらましを紹介しよう。
 長直さんは、13カ年を費やして赤穂城は完成しました。東の熊見川と南の海岸線をうまく利用しています。
 本丸内には東南隅に天守台を築き、この本丸をほぼ円形にとり囲んだ郭が二の丸です。
 本丸から北へ出た所が本丸門で、その前に大石頼母・山鹿素行邸を配置しました。
 二の丸の北・西を三の丸で囲み、この郭内には近藤正純・大石良欽などの重臣の邸を配置しました。
赤穂城の惣門、清水門、追手門、塩屋門、干潟門
 加里屋城下への東入口に東惣門(現在の加里屋橋西付近。俗に旧大橋)、西入口に西惣門(現在の国鉄赤穂線塩屋陸橋の東付近)の桝形を設けました。
 三の丸には四カ所の門があった。東の米蔵に面して清水門(川口門ともいう)。北東の正門である追手門。西の搦手門である塩屋門。南西の干潟門(潟口門ともいう)は最南の二の丸水手門とともに海に面したもので、海戦のための門といえよう。

池田輝興時代の城下町
(『赤穂市史第二巻』所収)
浅野長直時代の城下町
(『赤穂市史第二巻』所収)
城下町の町割を概観する
武家人口と町人口
 『赤穂市史第二巻』などで、そのあらましを紹介しよう。
 長直さんは、また1645年より1667(寛文7)年までの間に25町3反5畝27歩の侍屋敷を設けました。
 町人屋敷も2町4反3畝増加させました。
 その結果、浅野時代の人口は、つぎの様になります。
 武家人口は池田時代の2〜3倍で、士分270名、足軽を入れると500人、家族を入れると約3000人
 町人口も池田時代の1・5倍で、510軒の4744人、総人口は約7744人ということになる。
出丸的性格の寺院の役割
 池田輝興時代には、城郭の防御手段の一つとみられる寺院は万福寺・大蓮寺・妙典寺・随鴎寺・玄
興寺、実際は小庵ながら浄念寺・普門寺・長安寺でした。
 浅野氏の入封後、姫路街道の要所に城の余材をもって妙慶寺が、町の中心部には浅野家の菩提所
として花岳寺が建立されました。臨済宗玄興寺は真言宗遠林寺と改められて、浅野家の祈願所となりま
した。妙典寺は浅野長直さんの奥さんである高光院、大蓮寺は長友さん(長直さんの長男)の奥さんで
ある戒珠院の帰依を受けました。のち、妙典寺が奥さんの法名をとって高光寺と改められました。
 随鴎寺・塩林寺は水軍の屯所として、常清寺は東惣門のおさえとして、普門寺・妙慶寺・報恩寺は姫
路街道を守るため、高光寺・長安寺・福泉寺は西・北に対する構えとして、花岳寺は備前街道から城へ
南下する横町の屈曲部を守るために、赤穂城の出丸的意昧をもって配置されました。
参考資料
八木哲浩監修『赤穂市史第二巻』(赤穂市)
廣山尭道編『播州赤穂の城と町』(雄山閣)
岡田順一『新田の歴史一先人の遺産』
赤穂民俗研究会『赤穂の民俗その六一塩屋編』(赤穂市教育委員会)
廣山尭道編『赤穂塩業史』(赤穂市役所)
松岡秀夫編『ふるさとの思い出写真集一赤穂』(国書刊行会)
赤穂市立歴史博物館編『常設展示図録』(赤穂市立歴史博物館)
飯尾 精『赤穂城と大石神社』(大石神社)

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