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1591年7月5日発行(第029号)

忠臣蔵新聞

吉良上野介さんの三女、結婚

相手は大老家酒井さんの親戚

徳川御三家、謙信公以来の名門上杉家、外様雄藩の島津家、東北の雄津軽家とも親戚

徳川家 家康 秀忠 家光 綱吉 鶴姫
頼宣 光貞 綱教
吉憲
春千代
上杉家 謙信 景勝 定勝 綱勝 綱 憲
政子 富子
‖━ @女
北条時政 三之助
義氏 長氏 義定 義弥 義冬 義央 A女
足利義康 泰氏 尊氏 ━━━ 義周
B女
@女(島津綱貴室)
A女(津軽信房室)
B女(酒井忠平室)

名門吉良家のルーツは足利尊氏さんと同族

もっとさかのぼれば源氏の八幡太郎義家さん(さらには清和天皇)

華麗なる吉良一族をウォッチング
 寛永18(1641)年に上野介さんが江戸鍛冶橋邸で生まれました。お父さんは義冬さん、お母さんは酒井
忠吉さんの娘さんです。

上野介さん、謙信公の曾孫と結婚

 明暦3(1657)年に上野介さん(18歳)は上杉富子さん(19歳)と結婚しました。富子さんのお父さんは
米沢藩主30万石の大大名上杉定勝さんです。富子さんの「ひおじいさん」(曾祖父)が川中島の戦いで有
名な上杉謙信さんです。

上野介さんの義兄、吉良邸訪問後急死、毒殺説が浮上

 寛文4(1664)年5月に上野介さんを奥さんのお兄さんである上杉綱勝さん(米沢30万石の藩主)が訪問
しました。綱勝さんはその7日後に急死したので、後に毒殺されたのではないかという噂が出ました。
 これは後に上野介さんの実子が上杉家の養子になったことから推測した結果論で、当時養子になる強力
なライバルがいたので、上野介さんには思いもかけぬことである。 

保科正之さん、上杉家の取り潰しを救う
上野介さんの長子、米沢上杉家を相続

 寛文4(1664)年11月に上野介さんの長子三之助さん(2歳)が米沢上杉家を相続して、綱憲さんとなり
ました。
 江戸幕府の法律では「末期養子の禁」というのがあって、米沢上杉家の場合この法規により取り潰しは免
れない状況でした。この時、将軍家綱さんの叔父さんで会津藩主保科正之さんは自分の娘さんが急死した
綱勝さんの奥さんだった関係で、「三之助さんを養子とすることに決まっていた。手続きが遅れただけだ」と
釈明してくれた。
 その結果、領地は30万石から15万石に半減されたが、取り潰しを免れました。

長女鶴子さん、嶋津家へ嫁入り

 延宝3(1675)年2月に上野介さんは長女の鶴子さんを米沢上杉家(自分の子綱憲さん)の養女にして、
そこから薩摩藩主の島津綱貴さんに嫁がせました。

次女阿久里さん、津軽家に嫁入り

 貞享3(1686)年9月に上野介さんは次女の阿久里さんを米沢上杉家の養女にして、そこから津軽家の
分家津軽信房さんに嫁がせました。

米沢上杉家綱憲さんの次男、吉良家の養子となる
上野介さん、徳川御三家と親戚となる

 元禄2(1689)年11月1日に幕府は米沢上杉家の春千代さん(5歳)を上野介さん(49歳)の養子とする
ことを認めました。春千代さんが後の義周さんです。
 この義周さんのお母さんは御三家紀州の徳川綱教さんの妹さんです。綱教さんの奥さんは将軍綱吉さん
のむすめさんです。

三女菊子さん、大老家に嫁入り

 元禄4(1691)年7月5日に上野介さんは三女菊子さんを米沢上杉家の養女にして、そこから大老家の
酒井忠平さんに嫁がせました。
 忠平さんは、大老酒井忠勝さんの分家にあたります。

刃傷事件の10年前、天下を恐れぬ
上野介は大閨閥を形成

参考資料
『吉川弘文館『国史大辞典』

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