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臨時増刊号(第030号)

忠臣蔵新聞

上野介さんのルーツは
足利尊氏さんと同族

義兼 義純 (畠山氏の祖)
家氏 (斯波氏の祖)
義氏 泰氏 頼氏 家時 貞氏 足利尊氏
長氏 満氏 貞義 満義 満貞 (西条) 俊氏 義尚 義信 *1
尊義 (東条) 朝氏 持長 持助 *2
義郷 (没)
*1 (西条) 義元 義堯 義安
義昭 (戦死)
*2 (東条) 義藤 義春 義安 義定 義弥 義冬 義央 義周

上野介さんのルーツを探る

義氏さんのお母さんは執権北条時政さんの娘さん

 足利義氏さんのお兄さんは室町時代の三管領の一人畠山氏の先祖です。義氏さんのお母さんは
鎌倉時代の執権北条時政さんの娘さんです。
 そんな関係で将軍源頼朝さんの奥さんで、尼将軍政子さんに義氏さんは可愛がられたといいます。

長氏さんの本家から将軍足利尊氏さんが誕生 

 長氏さん(義氏さんの息子さん)は三河国幡豆郡に吉良荘を譲られて吉良氏の祖となりました。
 長氏さんの甥が三管領の一人斯波氏の先祖です。
 長氏さんのお兄さんである泰氏さんの家から室町時代の初代将軍足利尊氏さんが出ています。

貞義・満義さん親子が尊氏さんを応援

 貞義さん親子が足利尊氏さんを応援して室町幕府の創立を大きな役割を果たしました。

満貞さん、大名に下馬の礼をさせる

 満貞さんは南北朝時代の内乱(いわゆる観応の擾乱)に当たり、二代将軍足利義詮さんを応援し
ました。その結果吉良氏は室町幕府の御三家といわれ、大名でも道で会うと下馬の礼をしたといい
ます。
 満義さんの息子さん満貞さんとその弟さん尊義さんは仲が悪く、お兄さんは西条吉良家を、弟さん
は東条吉良家を創立しました。このころから吉良家は衰退を始めます。

本家の西条吉良家が滅亡

 天文5(1536)年に義堯さんは織田信秀さんと結び、今川義元さんに攻め滅ぼされました。
 義堯さんの長男義郷さんが若死にしたので、三男の義昭さんが跡継ぎとなり、次男の義安さんは
東条吉良家の養子となりました。
 永禄6(1563)年に義昭さんは三河一向一揆の主将に推されて戦死し、西条吉良家が絶えました。

義安さん、徳川家康さんに見出される

 本家の次男で分家の養子となった義安さんは、以前から名門ということで家康さんの叔母さんを妻
に迎えることが出来ました。そんな関係で家康さんから、両家の合併が認められました。

義弥さん、家康さんの初代高家に抜擢される

 慶長5(1600)年に義弥さんは関ヶ原の合戦で活躍し、吉良の地に3000石を与えられました。
 慶長13(1608)年12月に家康さんは関白二条康道さんと相談し、義弥さんを高家に列しました。
義弥さんは万石以下ながら格式の高い幕臣の処遇をうけるようになりました。 

上野介さんのお父さん、従四位上となる

 上野介さんのお父さん義冬さんが従四位上となりました。
上野介さん、将軍と同じ家格の直垂着用
 当時の武家の家格をみると、五位は大紋従四位は狩衣、将軍・御三家・従四位下侍従までは直垂
とあるから、将軍と同列の家格ということになる。
主な大名の位階官職
位階 官職 主な大名
従一位 太政大臣 将軍
従二位 大納言 尾張・紀伊
従三位 中納言 水戸
従三位 参議 前田
従三位 中将 尾張嫡子・紀伊嫡子
正四位上 中将 井伊
正四位下 中将 越前松平・会津松平
従四位上 中将 島津・仙台伊達
従四位上 少将 毛利・吉良
従四位下 少将 桑名松平・大老
従四位下 侍従 柳沢・老中
従四位下 四品 堀田・大久保
従五位下 諸大夫 諸大名・浅野
参考資料
『吉川弘文館『国史大辞典』

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