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元禄15(1702)年11月6日号(第181号)

忠臣蔵新聞

内蔵助さんと羽倉斎さんとの接点を探る
ー山科から撞木町まで徒歩で実験ー

伏見稲荷内の徳丸神社の神官は羽倉斎さん
山科からその前を抜けて廓通いの内蔵助さん

山科〜伏見稲荷〜撞木町 山科〜撞木町・祇園 山科の大石神社
伏見の撞木町廓跡 伏見稲荷(徳丸神社) 内蔵助さんが通った山道
11月6日(東京支社)

内蔵助さんの親戚の三平さん、斎さんを訪問


 内蔵助さんの親戚で江戸在住の大石三平さんが、羽倉斎さんの所へよく遊びに行きます。二人は文化人としての共通点を持っていました。

斎さん、内蔵助さんに
伏見であきれ、江戸で感心


 斎さんは内蔵助さんに興味を持っていました。それは京都でのことです。斎さんは伏見稲荷の本殿前にある徳丸神社の神官をしていました。当時、山科から撞木町への最短は山越えで伏見稲荷を抜けるコースです。記者も行ってみましたが、山科からはかなり平坦な道が続き、多くの人が通るので、歩きやすいルートとなっています。伏見稲荷の階段を下るのは、階段の数も多く、急なため大変でした。しかし、行きは下りなので約2時間で本殿まで行けました。そこから撞木町までも歩いて約1時間でした。帰りは伏見稲荷の階段を登るので、大変だったろうと思います。駕籠で悠長に帰れるものではありません。別なコースを通ったのでしょうか。
 それはともかく、神官の斎さんは山科から山越えで伏見稲荷を抜けて、自分の神社の前を通って撞木町の廓に遊びに行く内蔵助さんを見ていました。その時は「大義ある者がよく遊べる者だ」とあきれていました。
 先に江戸に出ていた斎さんは、三平さんから江戸に下向した内蔵助さんの話を聞いて、「あの遊びは大義を隠すためのものであったのか」と感心し、内蔵助さんに関心を持ちました。

斎さんを通して、源五さんが山田宗匠の弟子に


 斎さんが茶道の山田宗匠の話をする。山田宗匠はよく吉良邸によく出入りしているという。

 この話を聞いた内蔵助さんは浪士の中でもっとも文化人として何事にも精通している大高源五さんを山田宗匠の弟子にすることを決心しました。

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