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元禄15(1702)年12月15日(第238号)

忠臣蔵新聞

回向院より
両国橋東詰めで小休止

上杉・吉良家の追っ手を待っている間
源五さんは、句を詠み上げる

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マークが両国橋東詰にある
大高源五さんの碑
(日の恩や忽ちくたく厚氷)
12月15日(東京本社発)
両国橋は、大名の登城経路だったので、
本所から御船蔵を通り、永代橋を渡りました
 回向院でしばらく待ったが、上杉・吉良家からの追っ手もありませんでした。そこで、両国橋東詰めまで進むと、15日は御礼日といって、諸大名が両国橋を通って、江戸城に登城の日であることが分かりました。
 そこで、しばらく、小休止して、川沿いに南下して、一之橋に向いました。
史料
「道筋之儀通り町筋は御礼日儀候故指扣、本所御船蔵之後通永代橋より鉄抱洲・汐留橋・金杉橋・芝泉岳寺へ参候」
(『冨森助右衛門筆記』)
大高源五さんの石碑はフィクション?
 赤穂浪士が小休止した時、俳句の達人である大高源五さんが、「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」という句を詠みました。その句は今も、両国橋の東詰にある小さな公園の石碑に刻まれています。
 直訳すると、「太陽に暖かさで、分厚い氷も、すぐ砕けて溶ける」という意味です。意訳すると、「色々な人のお陰で、非常に困難な吉良邸討ち入りも、成功裡に終わった」という意味になります。
 これは、色々な史料を探しても、見つかりません。たぶんフィクションではないでしょうか。
 ただ、12月14日の夜、宝井其角さんは、吉良邸の隣の本多孫太郎邸の句会に出席していました。討ち入りで挨拶に来た大高源五さんを見て、「我がものと 思えば 軽ろし笠の雪」と呼びかけると、大高源五さんは「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」と返しました。その場にいた富森助右衛門も「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」と返しました。
 たぶん、ほら吹き其角さんからでた、フィクションではないでしょうか。

参考資料
『忠臣蔵第一巻・第三巻』(赤穂市史編纂室)
『実証義士銘々伝』(大石神社)
『実録忠臣蔵』(神戸新聞総合出版センター)

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